販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

ドイツ、『ヒンツ&クンツ』誌販売者 カルメン

医療費の返済に悩む日々。12歳の息子には、私よりいい暮らしをさせてあげたい

ドイツ、『ヒンツ&クンツ』誌販売者 カルメン

ドイツ北部の街ハンブルクを中心に販売されている『ヒンツ&クンツ』誌は、多くのロマの人々を販売者として受け入れ、彼らがドイツで自立した生活を営めるよう、さまざまな支援を行っている。ルーマニア出身のカルメン(39歳)も、そんなロマの販売者の1人だ。数週間前のこと、カルメンは危うく命を落とすところだった。
その日、彼女はハンブルクの南東にあるリューネブルクの町で雑誌を販売していた。いつものように、アルディというディスカウントストアの前で何時間も立ち、自宅へ帰る途中、突然気分が悪くなったと言う。それでも彼女はひと休みすることも、何か飲み物を口にすることもなく、残っていた最後のお金でバスの切符を買った。料金をごまかしたことは今まで一度もない。ようやく家にたどり着くと、すっかり動けなくなってしまった。夫が救急車を呼んで病院へ行くと、医師から心臓発作だと告げられた。
それは大きなショックだった。なぜなら、カルメンの兄は27歳の若さで心臓発作のため亡くなっていたからだ。にもかかわらず、彼女は病院にたった6時間滞在しただけで帰宅した。12歳の息子イオヌットを1人で家に留守番させたくなかったのと、高額な医療費を考えると怖くなってしまったからだ。彼女は保険に入っていない(※)。実はカルメンは、この5年にわたり健康の問題に苦しめられてきた。2010年にブルンスビュッテルの近郊でひどい自動車事故に遭い、お腹にいた赤ちゃんを失って以来だ。現在、彼女はいくつもの医療費を払えずにいる。何一つ悪いことをしていないのに、すでに4000ユーロ(約51万円)の借金を抱えているという。「私はバスのお金も払う。盗まない」と片言のドイツ語ながら、はっきりそう言いきった。
しかしカルメンの生活は、事故が起きる以前から決して楽ではなかった。彼女はルーマニア東部の小さな町で育った。貧しい地域で仕事も希望もなく、教育を受けることなど論外という場所だった。カルメンが14歳の時に兄が亡くなると、祖母の家に引き取られた兄の遺児たちの面倒を見なければならなくなった。当時のことを思い出すと、今でも涙が出てくるという。
世界が金融危機に揺れた08年、彼女は祖国を去った。ハンブルクに行ってアコーディオンを弾き、一か八かストリート・ミュージシャンになろうと思ったのだ。しかし彼女が演奏できたのはたった1曲だけ。「いつも『美しく青きドナウ』を弾いていたの」と言って、珍しく笑顔を見せた。だがその後、健康問題を抱えるようになると借金が増えていった。「夜は眠れないことが多い」と彼女はつぶやく。
幸いなことに『ヒンツ&クンツ』の販売者として登録することができ、生活に安定がもたらされた。それでも子どもたちの将来を考えると心配でたまらない。娘のイオネラは22歳で、すでに自分の家族を持っているが、正社員の仕事を見つけられずにいる。
息子のイオヌットのことも心配だ。彼は昨年10月からドイツの学校に通い始めたばかりで、カルメンが心臓発作を起こしたのはその矢先のことだった。「とても怖い」と彼女は言う。抱えている借金のために息子を取り上げられてしまうのではないか、あるいはルーマニアに自分が送還されてしまうのではないかと不安がよぎる。
カルメンに救いの手を差し伸べてくれたのは、『ヒンツ&クンツ』だけだった。彼女は今、新しい希望を抱いている。今までの人生で一番大きな願いだ。「イオヌットには、私の子ども時代よりもいい暮らしをさせてあげたい」


『Hinz&Kunzt』
●1冊の値段/1.9ユーロ(約250円)。そのうち1ユーロが販売者の収入に。
●発行回数/月刊
●販売場所/ハンブルクとその周辺都市

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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281 号(2016/02/15発売) SOLD OUT

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