販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
小寺敏一さん
仕事ができる喜び、人と触れ合える楽しさ人並みの幸せを感じられるようになった。 この仕事はもう俺の最後の砦だね
手際よくシャリを握り、「はいよっ、鉄火巻き」。ビッグイシュー定例サロンで振る舞うと、「おいしい!」と販売者やスタッフに好評で、あっという間になくなった。握り手は、大阪・阪急茨木市駅西口でビッグイシューを販売する小寺敏一さん(68歳)。若い頃に寿司職人の修業を積み、料理の世界で磨いてきたその腕はまだ健在だ。
大阪生まれの大阪育ち。子どもの頃から、農作業で家を空けることの多い両親に代わり、7歳下の弟のために食事をよく作っていたという。「祖父が養鶏所を経営していて、俺も小5ぐらいから鶏をさばいてた。平飼いの地鶏だから新鮮な砂ずりや肝は本当においしくて、よくつまみ食いしてたんだ(笑)」
料理が好きで、中学校卒業後は調理師学校へ入学。「でも、学校休んで仲間とやんちゃなことばっかりしてたから、卒業があやうくなった。恩師のおかげでなんとか卒業させてもらえたんだけど、卒業後は1年ほど定職に就かずふらふらしてしまって……」
そんな様子を見かねた両親から雷が落ちた。「自分でもこのままじゃアカンと思ってたから、心を入れ替えて働こうと、恩師を訪ねて仕事先を紹介してもろてね」
大阪にいたらまた悪友とつるんでしまうと、思い切って東京の寿司屋へ。そこで6年間働いたのちに帰阪。「親戚が話を進めて予想外に早く店をもつことになったんだけど、大阪万博の年で景気もよくて、店も繁盛。その1年後に結婚もして、苦労知らずでトントン拍子に進みすぎた。それが悪かったんやろうねえ」
稼ぎが増え、いつしか賭け事にはまってしまい、ついに店を畳まざるをえなくなった。数年後、店を再建したいと考えたものの、チェーンの回転寿司が流行り出し、個人経営の寿司屋は厳しい時代。思い切って居酒屋を始めたところ、「料理がうまくて話好きの店主がいる店」と評判を呼んだ。「そうなると、また遊びの虫がうずき出してね。さらに火事に遭っていろいろと物事がうまくいかなくなって、結局またお店を潰して、離婚もした。世の中、俺ほどのバカはそうそういないよ……」
他店で働き始めるも、自分より若い店長や同僚とうまくいかず続かなかった。料理の道はあきらめ、タクシー運転手に転職したのが3年半前。しかし、しばらくして脳梗塞を発症してしまう。「運転手は安全第一だから、俺はもう雇ってもらえなくなった。仕事も家も失って路上に出るしかなくて」
行くあてもなくスーパーのベンチに座ってテレビを観ていると、ビッグイシューの情報が流れた。「俺にもまた働けるチャンスはあるのかな」と考えていると、1週間後に路上で販売者と出会う。「その人が親切に仕事の説明をしてくれて、救われた気持ちになって、次の日事務所へ行ってね。それが去年の2月。これまで脳梗塞を計3回発症して、後遺症で右半身にしびれがあるけど、それでも仕事をさせてもらえるのはありがたい。仕事ができる喜びと、人と触れ合える楽しさがあって、また人並みの幸せを感じられるようになった気がしてる。この仕事はもう俺の最後の砦だね」
これからの人生は、自分にできることで世の中に少しでも恩返ししていきたい。そんな思いが日に日に強くなっているという小寺さん。販売場所のごみ拾いをし、販売者仲間がオープンしたカフェでは月に一度、ボランティアで料理をする。「今のホームレス人生、まったくとは言わないけど、卑屈にはなっていないよ。ただ、家族の顔を思い浮かべた時には、バカをやりすぎて悲しませてしまったと申し訳なく思うけどね。バカなことをし続けた自分なのに、いつもどこかで誰かに助けられて生きてきた。いつか、寿司屋時代に作っていた手作りポン酢をまた作って、お世話になった人たちに振る舞えたらいいな」
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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