販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
小泉好明さん
ビッグイシューを続けて5年半 自分で塗装屋でも始められたらいいけれど
JR飯田橋駅西口を出ると、鮮やかなブルーのアロハシャツに中折れ帽を身につけた俳優ばりにおしゃれな小泉好明さん(65歳)の姿が目に飛び込んできた。
若かりし頃、遺作となった映画『激流に生きる男』を見て、赤木圭一郎にひと目惚れしたらしい。彼のファッションを参考にしているうちに「雰囲気が似ている」と言われるようになった。
カラオケも好きで、中でも十八番は石原裕次郎のものまね。かつてはイタリア製のジャケットやスリーピースを着こなし、誰もが歌いたがる「夜霧よ今夜も有難う」ではなく、あえて「口笛が聞こえる港町」や「昭和たずねびと」なんかをよく歌っていた。行きつけのスナックのママから、「1曲200円の料金はいらないから歌って」と頼まれるほどの腕前だったようだ。
そんな小泉さんが生まれたのは昔から織物が盛んな東京・八王子。「両親は染め物屋を営んでいた」という。「親父は背中に虎が描かれた着流しがよく似合っていて、亡くなった時も、そいつを着せてあの世に送ってやりました。上には兄貴が二人いて、いつも物の取り合いばかりしていた。一番上の兄貴が家業を継いだけど、あっという間に染め物は廃れて仕事がなくなってしまいました」
小泉さんは中学卒業後、ラジエーターの工場でプレスや商品の試験を任されていたが、「飽きっぽい性格」が災いして3年ほど勤めて辞めた。
「じいさんが宮大工やら左官やら鳶やらをやった多才な人だった影響か、2番目の兄貴も自分で工務店を始めたので、俺も手伝うようになりました。ところが、その店もつぶれてしまい、しばらくぶらぶらした後、今度はクリーニング屋で働くようになりました」 しかし、仕上げまで完璧にこなせるようになったクリーニングの仕事も、勤めた店が3軒連続でつぶれてしまい、やる気を失った。自分で店を始めようかとも思ったが、資金の当てもなく、あきらめた。その後、しばらく塗装の修業をした小泉さんは職を求めて八王子を離れることにした。
「40歳前後で新宿に出てきても、日当1万円とか15日契約の土建関係の仕事しかなくて、恥ずかしながら、その頃から路上で寝泊まりするようになりました。そのうち新宿で知り合ったカメラマンとアパートを借りて暮らすようになりましたが、土建の仕事がなくなって出ていかないといけなくなりました」
途方に暮れていた小泉さんに、「東京中央教会へ行ったら、ビッグイシューを売らないかって勧誘していたよ」と、そのカメラマンが教えてくれた。
そして08年の1月1日に発売されたジョニー・デップが表紙の86号から、小泉さんは九段下でビッグイシューを売り始めた。その後、銀座、代々木、飯田橋と売り場は変えたものの、もう5年半も続いている。
「飽きっぽい性格で、今までどんな仕事も3年もてばいいほうだったのに、どういうわけかビッグイシューは続いている。今日はどれだけ売れるか読めなくてハラハラするところが、20代の頃はまっていた株に似ているからかもしれません。でも株は売った途端にうなぎ登りになって裏切られたことがあったけど、ビッグイシューにはそれがない」
朝8時から夜7時頃まで、あまりに暑い日中は木陰で時折身体を休めながら立っていると、「学生さんから、じっちゃん、ばっちゃんまで」いろいろな人が話しかけてくれる。20代の頃は「歌手になりたい」と願うほど大好きだった歌の話で盛り上がることもあれば、いつも買ってくれる会社員の男性から、「おたくは服のセンスがいいんだねえ。さまになっているよ」と褒められたこともある。「粋な和服を着こなしていた、おしゃれな親父の影響かもしれない」と思うと、うれしくなった。
新宿や上野の安くて品揃えのいい店で、たまに洋服を見るのが楽しみで、もう少し涼しくなったらGジャンにGパン、カウボーイハット姿の小泉さんが見られる。
将来については、「歌は上には上がいるから、自分で塗装屋でも始められたらいいけど」と言いつつも、きらびやかなスターの世界への憧れも完全には捨てきれていないようだ。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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特集闇と遊ぶ