販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
浜辺浩さん
1年後か2年後かわからないけど、働き続けられる会社が見つかるまで 痛風をなだめながら売り続けたい
住み慣れた岩手県・盛岡市を、浜辺浩さん(37歳)が離れたのは今から11年ほど前、27歳の誕生日を迎える1週間前のことだった。盛岡で生まれ育ち、就職もした浜辺さんは、ずっと盛岡で暮らすつもりでいた。
「県外で仕事をすることを考えたことはなかった」と、浜辺さん。初めて就職した会社で手がけたのは、溶接の仕事。「自動車の運転免許を仕事の合間に取ってもらう」と言われていたのに、教習所に通う時間を取れないままの日が続く。3年ほど経っても状況は変わらず、浜辺さんは会社を辞めた。アルバイトや母から紹介された知人の会社の手伝いなどの合間に免許を取得した後、落ち着ける仕事を探したものの、不況に陥った時代は予想以上に厳しかった。
「ハローワークで仕事を探していたけど、見つからなくて。母に『盛岡で仕事が見つからないなら、東京に行けば?』と言われて、東京の仕事を探そうと……」
運よく、寮つきの警備会社での就職が決まった。単身で東京に移り住み、マンションやオフィスビルの建設現場に通って交通整理などをする日々が続いた。繁忙期には夜勤も含めた仕事が続いたが、性に合っていたのか5年の月日がまたたく間に流れた。会社を辞める決意をしたのは、預かっていた会社のお金を紛失してしまうという事件が起きたから。あらぬ噂を立てられることを恐れ、自ら退職を願い出た。
「何も辞めることはないとも言われたけど、自分自身が落ち着かなかったから」。その決断は間違っていなかったときっぱり口に出した浜辺さんだが、そこから始まったのは流浪の人生だった。工場勤務で派遣切りにあったり、やっとの思いで就職した水道管工事の会社で自宅待機を命じられる日々が続いたり、定職・定住への期待を裏切られ続ける。
「もう路上しかないと思っていたところで、家族が『新宿で炊き出しをやっているらしい』と教えてくれて」
親や兄弟とは電話やメールで連絡を取り合っている浜辺さん。助言に従って新宿へ出たことが、転機につながる。
「新宿へ行って、路上生活をしながらハローワークに通っていたけど、なかなか仕事は見つからなかった」
ある日、以前に路上生活者自立支援センターで知り合った男性がビッグイシューを販売している場面に遭遇した。
「これならハローワークに通いながらでもできると思って、事務所の連絡先を聞いて、すぐに始めたのが2年ぐらい前」
しかし、20代からわずらっている痛風の悪化や就職活動、季節の変わり目などで、浜辺さんは販売を一度辞めてしまう。今年の2月に販売者として再登録し、今は平日の朝10時前から日没までは赤坂サカス角、週末や祝日は渋谷マークシティ前で販売にいそしんでいる。最近はビッグイシューの新刊が出ると、実家に2冊ずつ送る。
「痛風も3ヵ月に1度通院すればいいだけになったから、大丈夫。寒くなるこれからの時期が風は強いし日は当たらないしつらいけど、常連のお客さんもついてきたし新しい号が出てすぐは一日に10~15冊は売れるし。あと1年こうやって雑誌を売り続けて、仕事を見つけたい。まあ、1年より短くなるかもしれないし、2年・3年たってもまだ売っているかもしれないけど」
痛風は、時期が来ると区役所の福祉課へ行って医療券の申請をしているのだとか。実は、ホームレス支援法や行旅病人及行旅死亡人取扱法(移動中や漂泊中の人、広くはホームレスなどが病気をしたり死亡したりした場合には所在地の市区町村が処理を担当するという規定)などで、ホームレスの健康は制度として支援されている。
「福祉課からは生活保護の申請を勧められることもあるけど、俺のような、まだバリバリ仕事できる年齢では、生活保護の申請はしなくていい」
経験のある警備員か工場での仕事がしたいと、浜辺さんは言う。実家に帰る選択肢はないのかをたずねると、東京のほうがまだ就職の機会がありそうだから東京でもうしばらくやっていきたいとの答えが返ってきた。
「仕事をするのは当たり前だと思っているし、まじめに仕事したい。去年の10月から12月にかけて履歴書を十何通と送ってもどこの会社もうんともすんとも言ってこなかったから、今年はまだあまりハローワークに行ってないなあ……。3月にかけて警備の仕事は増えるはずだけど、去年のことを思うとなかなか……」と、浜辺さんは言葉を濁した。
「ずっと続けられる仕事とめぐり合いたい」。浜辺さんが抱くごく平凡な願いをかなえてくれる企業は、いつ現れるのだろうか。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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