販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
『BISS』誌販売者、マーティン・ベラソーさん
ドイツ・ミュンヘンといえば、ビール、オペラ音楽祭にブンデスリーガ優勝22回を誇る名門サッカーチーム、バイエルン・ミュンヘン。また、市北部には世界有数の自動車メーカーBMWの本社もあり、ドイツ南部の経済的中心地として知られる。 美しい街並みを誇るこの都市で、93年から発行されつづけているストリート・マガジンが『BISS』誌だ。
事務所を訪れると、販売者のマーティン・ベラソー(46歳)が、愛犬マヤとともに出迎えてくれた。
マーティンが路上生活を始めたのは20歳の時。ベーカリーを営むための訓練を受けていたが、家族と折り合いが悪く、結局ベーカリーで職に就くこともなく、地元を離れてミュンヘンにやって来た。「最初の夜は、カールスプラッツ駅で寝たんだけど、冬の寒い日でね。周りはみんな僕より年上だったし、怖かったよ。寒さと怖さを打ち消すために、酒をがぶ飲みしたのを覚えている」とマーティン。その後、マリファナ、ヘロインにも手をだし、アルコールとドラッグの依存症者になっていった。
人づてに『BISS』のことを聞いたのは、13年前のこと。雑誌販売という仕事に自分がなじめるか不安もあったが、忠実に自分の売り場に立つ彼に、徐々にお客さんもつき始めた。『BISS』コミュニティに溶け込み、人間関係が築かれていくうちに、徐々にドラッグは必要なくなり、今では完全にクリーンだとマーティンは語る。
『BISS』に来て4年目に、転機が訪れた。『BISS』が彼に「雇用販売者にならないか?」と持ちかけたのだ。
『BISS』の特色の1つが、この雇用販売者のシステムだ。『BISS』では、「販売者になりたい」と40歳までの若い人が訪れると、まずは将来につながるスキルが身につくような職業訓練の場を紹介する。そのため、現在約100人いる販売者のうち、40~49歳が26%、50~59歳が42%、60~75歳が21%で、39歳までの販売者は11%にすぎない。
一度販売者として登録されると、雑誌販売を1年ほど続けた時点で、『BISS』と雇用契約を結ぶかどうかを販売者が選べる。雇用契約を結ぶ場合は、第一段階として、月400冊以上、雑誌を売ることを約束する。これによって、パートタイムの従業員として、『BISS』に登録される。
月400冊を継続的に売っていける自信がつくと、段階的に600冊、800冊と目標が上がっていき、800冊の段階で、『BISS』のフルタイムの従業員として登録され、月収1150ユーロが得られるのだ。
フルタイムの従業員になると、社会保障も付き、税金も払うのだが、彼らをサポートするのが、「ゴッド・ファーザー」制度の存在だ。これは、個人や会社から寄付を募り、彼らの寄付によって、雇用された販売者の社会保険料や給料の補てんなどをするというもの。『BISS』の誌面では、毎号1ページが割かれ、現在いる36人の雇用販売者とゴッド・ファーザーを紹介している。たとえば、マーティンには、アントニー・ツォウナー・スティフトゥングというゴッド・ファーザーが存在する。
だが、マーティンは最初、雇用販売者になることを嫌がったという。というのも、彼の昔のドラッグ仲間たちは、みんな40歳の声を聞く前にこの世を去っていた。自分も遠からぬ将来に命が尽きるに違いない、そう信じていたためだ。それを、『BISS』のディレクター、ヒルデガルドがこう説得した。「お医者さんも、あなたの健康にはまったく問題がないって太鼓判を押したじゃない。今は少し気分がすぐれないかもしれないけれど、あなたはまったくの健康体。そんなに簡単に死ぬはずがないわ。それに、あなたは4年も社会で働いてきて、今ではアパートに住んでいるのだから、社会に対して果たすべき責任もあるのよ」
その3週間後事務所を訪れたマーティンは、笑顔でこう語ったという。「そうだね、僕にも社会に対して果たすべき責任がある。雇用販売者として僕を登録してください」。こうして、マーティンは9年間、雇用販売者として『BISS』で働いている。
『BISS』では、販売者のための墓も購入し、これまで7人を看取ってきた。「路上」から「墓場」まで付き合うストリート・マガジン『BISS』は、販売者にとって、まさに「ホーム」以外の何ものでもない。
「自分のアパートの部屋に帰って好きな音楽をかける。大好きな犬や猫たちに囲まれて至福の時だ。最近中古のギターを買ったので、それを弾くのが楽しくてしかたないんだ」と語るマーティン。生涯のホームを得ると、人はここまで平穏な気持ちになれるのだ。マーティンの幸せそうな表情を見ると、心からそう思う。かたわらで相棒のマヤが、小首をかしげて彼を見つめていた。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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