販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
山口誠さん
路上で困っている人を放っておけない。わしも最初は一人で参ったから
山口誠さん(55歳)は、今年3月中旬から新宿1丁目・靖国通り沿いで販売を始めた。山口さんが立っているのは、地下鉄新宿御苑駅を北上し、新宿駅から東西に延びている靖国通りに交差する地点だ。
「身体を動かすことは厭わないからね。じっとしてるのは、つまらんのよ」と言う山口さんは、主に3つの仕事をかけもちしている。ビッグイシューの販売と、空き缶の回収・販売、10日に1回ほどの特別就労(自治体が実施)だ。早朝に起きて1日分の空き缶を集めると、上野あたりの買い取り店まで片道1時間半の道を毎日、自転車で行き来しているという。空き缶の買い取り値は、一昨年までは1キロにつき170円前後だったのが、現在は1キロ110円くらいになっているそうだ。
「いい時は高値やけど、ひどい時は週に5円ずつ落ちていくこともある。金とかの取引値が日々変動しているのと一緒やね。2年前、株の市場が破綻したいうてニュースになった次の日、1キロ50円に下がったんよ。『リーマンショックで空き缶も何も暴落や』いう話をして笑ってたんで、よう覚えとる」
午後はビッグイシューの販売に集中し、販売を終えるのは惣菜の値段が半額になる頃。公園でおかずを食べ、食後のデザートに「ソフトクリームを買って食べるのが楽しみなんだよ」と話す山口さんは、何ともうれしそうだ。翌朝4時前には目を覚まし、せっけんで顔や衣類を洗って、また山口さんの忙しい一日が始まる。
山口さんは富山県の出身、きょうだいは妹だけで、農業に従事していた両親はすでに亡くなっているという。母は、山口さんが高校を卒業するその日、40代で亡くなったそうだ。それをきっかけに父との折り合いが悪くなり、家に寄りつかなくなっていた山口さんは、30歳を過ぎた頃から大阪・釜ヶ崎地区で日雇い労働者として生活するようになった。
「高校の時につき合った女の子がおったけど、農家が嫌だって。そんで、老人がおらん家がいいと言われた。わしはおばあさん子やったけど……。そらショックやったけどな、そういう時代だったんだよ。農家は苦労すると思われてた。田植えだってその頃は手で植えとって、若いうちから腰が曲がったりするやろ。家にはいたくなかったから、田畑を継ぐより自由がよかったんだよ」
「お金は自分で稼ぐ」と決めていた山口さんは実家には帰らず、13年間を釜ヶ崎で過ごしたそうだ。5年ほど前、東京に来てしばらくすると、やはり日雇い労働で知られる山谷地区に移り住んだ。
「最初のうちは、やっぱり情けなかった。日雇い労働者が泊まる簡易ホテルみたいな安いところがあって、そこで大晦日に紅白を観たりするとね、考えるよ。何で田舎の広い部屋でなくて、ここにおるんかなとか。今は、たまにふっと思い出すぐらいで、それはもう昔の話だ。そんなヒマもないしな。景気が悪かろうが、今は悩まない。精いっぱい生きて、幸せやったら、どこにいたって同じことやから」
大阪にいた頃から空き缶の回収業をしていた山口さんは、思うところがあって山谷を出てからは、空き缶の仕事だけで生活していたそうだ。「両立したらいいよ」と勧めてくれたビッグイシュー販売者の紹介で、稼ぎ口の一つとして販売を始めたのだという。しかし、「今後は一足のワラジでいきたい」と山口さんは言う。
「販売は楽しいよ。売れる、売れないは関係ない。仲間うちのつき合いだけでなく、サラリーマンとかOLの人、地元の商店の人、いろんな人と交流できる。空き缶は相場があって不安定やし、それで稼いだ金をビッグイシューの仕入れに投入して、最終的には販売だけに絞りたい思うてる」
ところで、日雇い労働の長い生活歴をもつ山口さんは、路上で困っている人を放っておけないという。生活保護の申請に付き添ったり、派遣の仕事を打ち切られてホームレスになったばかりの人に生活の術を教えたりと、世話を焼いた人は、これまでにざっと100人ほどになるそうだ。
「わしも東京に来た時、最初は一人で知り合いもいないんで参った。だんだん気持ちが小さくなって、『もう終わりかな、わしの人生も』と考えることあったよ。でも今はそうでない。楽しいんだよ。自分で金を稼いで、ごはんが食べられて、一人で寂しい顔しないで済んでる。今が一番いい、わしはそう思うんやけどね。今はもうどこへも行く気ないよ」
体重50キロを切る身軽な山口さんは、今日も空き缶の袋を愛用の自転車に積み上げ、東京の街を走り回っている。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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