販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
藤岡一夫さん
ビッグイシューの仕事って、 露店の仕事にちょっと似てる。 自分はお客さん相手の仕事が 合っていると思う。
「販売中はなるべく声を出すようにしています。黙っている方が疲れるんですよ。交差点付近に立っているのは、信号が赤になった時、お客さんが足を止めてくれる確率が高いから。明るい色合いのバックナンバーも一緒に見せると、目を留めてもらいやすいんです」と話すのは、新宿南口、ルミネ前交差点でビッグイシューを販売する藤岡一夫さん(57歳)だ。
堂々たる仕事ぶりとプロ意識が垣間見える語り口からは、販売を初めてからたった2ヵ月半しか経っていないとは思えない。
藤岡さんは『路上脱出ガイド』がきっかけでビッグイシュー販売を始めた。
「路上に出て1ヵ月。ちょうど5月の終わりに有楽町の駅付近に座っていたら、ボランティアスタッフの人に『路上脱出ガイド』を渡されました。そこにビッグイシューの情報も載っていて、少しでも現金が入るならありがたいと、すぐに販売を始めることにしたんです」
それ以前は15年近く、建設現場を転々とし、作業員として働いてきた。作業主任者の資格をもち、現場で足場を組む作業などを担当していたという。
仕事はハローワークや新聞で探してきたが、45歳を過ぎた頃から、年齢を理由に落とされることが多くなり、昨今の経済不況が、さらに藤岡さんに追い打ちをかけた。
仕事はハローワークや新聞で探してきたが、45歳を過ぎた頃から、年齢を理由に落とされることが多くなり、昨今の経済不況が、さらに藤岡さんに追い打ちをかけた。
藤岡さんは神戸市の出身。一人っ子だった藤岡さんは両親離婚の後、父親と死別し、18歳で天涯孤独の身となってしまったという。
「そんなもんかなって、自分が特別不幸だとか、かわいそうだとか、思ったことありません。昔ですからね、戦争で親を亡くした人とか、結構多かったんですよ」
中学を卒業した後、神戸市内にある有名デパートに社員として入社。
「地下にあったお客様食堂での仕事でした。寿司屋の見習いとして入ったんですが、自分には向いていませんでしたね。数年で辞めて、神戸市の靴工場へ入るんですが、そこも2、3年しか続かなかった。靴全体の製作を覚えられると思っていたんですけど、裁断作業しかやらせてもらえなくて飽きちゃって。その後は知人の紹介で東京に出て、新製品の電卓を試作する工場で働きました。そこもやっぱり数年で辞めてしまって……何やっても続かない、ホントにダメだなと思ってます」
そんな藤岡さんが唯一続いた仕事がある。それが、お祭りなどでたこ焼きや大判焼きなどの露店を出す露天商(テキ屋)の仕事だった。
「夏から秋はお祭り、春はお花見に合わせて、全国各地を転々とするんだけど、それがとにかく楽しかった。仲間と一緒の旅暮らし。土地土地のおいしいものを食べて、現地の人と仲よくなる。飽きることがなかったですね。たこ焼きや大判焼き、ブロマイドなんかもよく売りましたよ。祭りのない冬の時期は、神社の境内に露店を出すの。おみくじを売ってたこともありましたね」
桜前線とともに北上し、祭り囃子とともに移動する―そんな生活が性に合っていたと藤岡さんは言う。
「昔はのどかでね、小学校の運動会にもよく呼ばれましたよ。田舎の方だと小学校の運動会は村全体の運動会みたいなもんで、大人もみんな参加する。秋田のほうでは“ワラジ編み競争”なんて種目があって本当におもしろかったんですよ」
祭りになるとどこからともなく現れ、一夜の夢のごとく去っていく露天商のおじさん。藤岡さんの夢もまたはかなかった。
露天商の仕事は気に入っていたが、旅暮らしで金の出入りは激しく、時間も不規則。将来にわたって続けていくことに不安を感じた藤岡さんは、露天商の仕事を辞め、建築の仕事に就くことを選択したのだった。
あのまま露店の仕事を続けていればよかったなと思うこともある。
「まぁ過去のことを振り返ってもしょうがないけどね。でも最近、ビッグイシューの仕事って、露店の仕事にちょっと似てるなと思うことがあるんです。ちゃんとした店じゃないけど、雑誌をブロマイドみたいに見せようと考えている時とか、お客さんに買ってもらう時のうれしい気持ちとか、ちょっとした会話をする感覚とか、ふと昔を思い出す。いろんな仕事を経験したけど、やっぱり自分はお客さん相手の仕事が合っているんだなってこともわかったからね。そんな昔の気持ちを思い出させてくれたビッグイシュー販売をしばらくは続けてみようと思っているんですよ」
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
この記事が掲載されている BIG ISSUE
127 号(2009/09/15発売) SOLD OUT
特集リーマン・ショックから1年。これからの世界と社会のゆくえ