販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
渡辺正則さん
販売部数を伸ばし、生活基盤を立て直し、人生を再設計したい
渡辺正則さん(46歳)は、地下鉄・溜池山王駅9番出口付近で、今年1月から販売している。丁寧でちょっと独特な口調は、俳優の水谷豊そっくり。背は高いほうではなく、物腰が柔らかいところも似ている。
販売場所である溜池山王はオフィス街で、隣接駅は永田町に国会議事堂前。「7割の人は、私には目もくれずまっすぐ歩いていきます」と渡辺さんが言うように、販売部数は苦戦中だ。
平日の朝夕は溜池山王、平日の昼間と土日は六本木、新号が出てしばらくしたら午前中はお茶の水でも販売と、お客を求めて販売場所を行ったり来たり。それでも1日平均約22冊の販売で、時には1ケタ台が続くこともあるという。「遠くても、ちょっと変わったキャラの販売員がいると思って、遊びがてら販売場所を訪ねて来てください」と渡辺さん。
渡辺さんは父を早くに亡くし、3人の兄も40歳になる前にそれぞれ他界し、母と母が50代のときに再婚した義父だけが健在だ。過去に2回家庭をもったことがあり、子どももいるが、別れてからはどちらともまったく連絡をとっていない。
「今思うと、高校を中退したことが一番、悔いが残りますね。履歴書に"卒業"と書けていたら、ちょっと違う人生が歩めたかもしれないなって思うことはあります」
渡辺さんは新潟県の農村で育ち、地元の高校に通っていたが、学校が合わないと感じて自ら退学。喫煙が見つかり、停学になったことがきっかけだった。2ヵ月後、東京に出て食堂の厨房に住み込みで働き、4年後に運送会社に転職。2年半が過ぎた頃、居眠り運転で、信号待ちをしている大型車に後ろから衝突するという事故を起こした。物損事故で大事には至らなかったが、免許は取消しに。16歳から同棲し結婚していた女性とは、事故で失業後、離婚した。20歳の時に生まれた女の子は今、27歳になっているはず。
27歳の時、別の土地で心機一転をはかろうと名古屋に向かい、「自分に合った仕事が見つかった」。ボイラーや焼却炉の整備とメンテナンスという特殊な仕事だ。溶接などの特殊技術を用い、コンマ何ミリという世界で図面から物を作る。「毎日が発見」で、仕事がおもしろく、17年間勤めた。
しかし、アスベストの風評があるうえ、景気に左右されやすく、忙しい時は無休で盆正月もない。派遣労働なので、それが直接、収入にも響いた。やがて現場の責任者となったが、責任ばかりが重く、それに見合った給料はもらえない。保険も途中で打ち切られ、国民健康保険料を自腹で払っていた。
この仕事に見切りをつけ、一昨年の4月、再び東京に来てみると、仕事のなさに愕然とした。途方に暮れ、しばらくはネットカフェに居たが、所持金を使い果たし、路上へ。
販売を始める前にも、働いたことはあった。しかし、先輩の「おい、お前」という命令口調や、教える気のない態度に我慢がならず、1か月で辞めた。「人にしばられたくない、指図されるのも好きじゃない。それは、確かにありますね」と渡辺さん。
一方で、ホームレスの仲間は、いつも温かかった。初めに路上で寝たときから「そこ空いてるから寝ていいよ」と親切にしてくれ、炊き出しの場所やビッグイシューのことなども惜しまず教えてくれる。「今日は売れなかったのかい? じゃあ一杯おごってやるよ!」と、先輩たちに励まされてもいる。
今は、どうしたら売れるようになるのかを前向きに考え、過ぎたことは振り返らない。「高校中退のほかは、生きてきた中で後悔したことはないですね。あっけらかんとして見えるかもしれないけど、過ぎたことを考えてもしかたがないと思ってる」。でも、家族のことを話す時、渡辺さんの目はちょっとだけ潤んで見えた。
少しずつ販売部数を伸ばし、ある程度したら生活の基盤を立て直して人生を再設計するつもりでいる。両親のことはホームレスになった2年前から様子がわからないが、落ち着いたら連絡し、父の墓参りもしたいという。
「派遣はだめ、最低の扱いを受けます。技術を生かした仕事で、なおかつ正社員でやれるところを探します。そのために東京に来たのだから」
残りの半生について尋ねると、こう答えてくれた。「もうあと半分生きるんですか、大変だなあ(笑)。自分のやりたいことを悔いの残らないようにやるだけです。悔いが残るのだったら最初からやらない。やるからにはベストを尽くすのみです」
37歳で新たに免許をとった渡辺さん。以来、無事故無違反を貫いている。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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