販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
照周(てるちか)さん
人間まじめに生きてたら、咲かない花でも咲きますよ
高層ビルに囲まれた梅田新道の一角で販売をする照周(てるちか)さん。平日と土曜日の朝8時半から夕方6時半まで立ち続け、1日の平均売り上げは20冊。悪い日は10冊程度に落ち込むこともあるが、今年の正月明けには71冊の最高記録を立てた。照周さん曰く、「道を尋ねられることが多い時ほど、よく売れる」のだそう。
「販売を始めて1年ほど経ちますけど、お客さんは顔なじみの方が多いですねぇ。温和で親切な人ばかりです。ある時は、中年の会社員の男性でしたけど、他の仕事で販売に立てなかった時に『おっちゃん、風邪ひいたんかと思った』って心配してくれたり、近くで夜のお勤めされてる奥さんが『寝るとこあるんですか?』って声かけてくれたり。だから、30秒でも1分でも、お客さんとの会話を大事にしたいと思ってます」
心の和むような笑顔をのぞかせながら話す照周さん。小柄な身体で身軽に風をきって歩く姿からは想像できないが、なんと現在71歳。 「生まれは和歌山の串本です。父親は小さい時に、母親は25歳の時に亡くしましたが、今も兄と姉は元気ですよ。子どもの頃いうたら、そりゃ今の世の中に比べたら地獄でしたよ。終戦後ちょうど8歳ぐらいでねぇ、その時代はとにかく物が何にもなかったですから。中学にあがってからは、とにかく手に職をと考え、家から通えるところで洋服作りのでっち奉公を1年しました。それから大阪へ出て、東成区にある紳士服屋に住み込みで働き始めました」
修業1年目は、ひたすら縫い物の稽古とミシン掃除。2年目からズボン、そのうち上着と縫わせてもらえるようになり、修業最後の6年目、お礼奉公をする頃にはモーニング(礼服)を作るようになっていた。 「お給料は見習いの頃で月々3000円。当時はかけうどんが1杯30円、下駄が100円の時代ですから悪くはないですよ。お礼奉公の時には月に1万円もらえましたし。家族経営のお店で人もみんなよかったんですけど、お礼奉公が終わったら独立するのが普通だったので、その後はお店を出て、同じ東成区の街で自分のお店をもちました」
服作りから注文取り、納品まで 一人でこなす多忙な毎日。そんな生活の中で、照周さんの励みとなった楽しみが一つあった。それは、でっち奉公時代から好きだった三橋美智也さんの歌を聴きに行くこと。後援会の役を引き受けるほど熱を入れていた。ところが、予想もしていなかった事件が照周さんを襲う。
「年末に後援会で石川の山中温泉に行った帰りのことです。僕らの乗った観光バスがトラックに正面衝突されて、25人もケガしてねぇ。当時は新聞にも載ったんですよ。今でもおでこに傷が残ってますけど、この外傷が原因で重労働はできなくなり、ずっと習ってた踊りもやめました。三味線はなんとか続けられましたけど」
思ってもみない惨事に見舞われながらも、照周さんはその後も地道に店を続け、13年が経った頃、新たな転機がやってきた。でっち奉公時代からのお得意さんの誘いで不動産業へ転身、経営者が高齢になり会社をやめるまで30年近く働くことになる。それから、60歳をすぎた照周さんが次に始めたのがビル管理の仕事。資格を取り、責任者も務め7年働いたが、自分の紹介した知り合いがビルのテナントの借主をだましたことに責任を感じ、自ら退職。その後、弁当屋の仕事に就き順調に4年が過ぎたが、今度は店が火事に。結局、火事の後の不衛生な建物で弁当を作り続ける経営者のやり方に納得できず、店をやめ、ダンボールで寝泊まりする生活が始まった。
「それからも交通量の計測や、チケットの仕入れの仕事もしました。そのうちに、西成の特掃(生活道路の掃除)の仕事でビッグイシューの販売をしてる人に出会って、それがきっかけで売り始めるようになったんです。当時は自分がホームレスだという意識がなかっただけに、最初は正直、抵抗がありましたけどねぇ」
現在、照周さんは西成のドヤに住みながら、ビッグイシューの他にも単発の仕事をこなし相変わらず大忙しの生活。一番の楽しみは、やっぱり三橋さんの歌を聴くこと。お金が貯まったらカラオケへ行き、三橋さんの命日には墓参りにも行く。 「僕の人生、ええ時より悪い時の方が、世の中や、人のために役立つことができるなって、これまでの経験で思うんです。悪いことは絶対にせんと、人間まじめに生きてたら絶対に花が開く。咲かない花でも咲きますよ、ほんまに」
人生どんなことが起きても、希望を失わず、まじめにこつこつと働いてきた照周さんならではの言葉が返ってきた。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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