販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
柳沢清さん
お客さんとは、人間対人間のつき合いをしているつもり
1945年生まれ、60歳の柳沢清さんは、葛藤している。
このまま販売を続けていきますか? と尋ねたら、柳沢さんは、言葉をくぎりくぎりこう言った。
「先の長い話で、まだ結論は出ないね。でも今は、別な仕事を始めるからと簡単にやめられる状態ではないんですよ。人間対人間のつき合いをしてるから。お客さんとは」
千葉県の船橋駅前でビッグイシューの販売を始めたのは、昨年3月のこと。炊き出しと礼拝に通っていた教会で、「2、3日手伝ってくれ」と声をかけられたのだったが、最後まで残ったのは自分だった。
「いいお客さんに助けてもらっています。売り上げが減る頃を見計らって差し入れをくれたり、宣伝にまとめ買いしてくれる人もいます。仕事も紹介してもらったのですが、この場所を任せられる人がいないと、買いに来てくれるお客さんに悪いから」
だから、急にはやめられないというのだ。といっても、ビッグイシューの知名度がそれほど高くない船橋では、1日15冊の売り上げがやっと。
「夏なら夜はベンチでも寝られるし、朝までやってる喫茶店なら500円で過ごせるから」
それで、翌日、炎天下で販売していたら、身体がもたないのでは……。
「たまに漫画喫茶に行ってぐっすり寝るから大丈夫。でも漫画喫茶だと1000円はかかるから毎日は行けないけど」
確かなのは、柳沢さんが義理堅い人だということ、少なくとも柳沢さんは、お客さんと気持ちでつながっていると確信を持って、船橋で暮らしている、ということだ。
通算25年ほど建設関係の現場作業の仕事をしてきた柳沢さんが、路上生活に入ったのは、一昨年の2003年11月に社長と衝突して働いていた会社を辞めたとき。社員寮は出なければならない。還暦に近い柳沢さんに、次の仕事のあてはなかった。
雪深い地方に生まれ育った柳沢さんは、地元の技術系短大を卒業して、化学メーカーに就職した。もう1社、条件のよい就職先の内定も得たが、73年の石油ショックによる不景気で、自宅待機を命じられてしまった。柳沢さんにはそんな悠長なことをいっている余裕はなかった。
生まれてすぐ父親が亡くなり、柳沢さんたち姉弟を一人で育ててくれた母親も高校在学中にこの世を去った。一人で生きていかねばならない。さらに、結婚の約束をした女性と生まれたばかりの女の子がいた。
明日からでも働いていい、という会社で、ゼロから勉強してセメントの知識を身につけ、ごみ焼却炉や火力発電所の高い煙突に使うコンクリートの管理に携わった。10年で会社を辞めて離婚して、それからはいくつかの会社を転々としてきた。なぜなのかは、多くを語らない。一人娘には、20年以上会っていない。
「娘にはそりゃ会いたいよ。別れて1年は、声はかけなかったけど、時々娘のことを見に行っていたんだから」
そう言って、柳沢さんはトイレに立った。
地元を離れ、知人に誘われるまま関西の現場などで仕事をした柳沢さんは、17年前に店を手伝ってほしいという友人に請われて東京に来た。43歳、まだ若かったが、「こっちに来て惰性に流されちゃった」。ビールならコップに1杯がやっとだった酒も浴びるように飲んで、底なしになった。しかし、最後の会社を飛び出し、炊き出しを通じて教会に通うようになってから、心の支えができた。
「祈って求めるものは何でも、すべて受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。」(マルコの福音書11章24節)
「受けられる」ではなく「受けた」。苦境に立ったときは、聖書に書いてあったこの言葉を思い出す。
「遅かれ早かれ、おれにとって必要なことは、たいがいその通りになっている。だからおれはこの言葉を信じているんだ」
柳沢さんは、かつて奇跡的に命を助けられている。関西にいたとき、酔って山道を歩いていて交通事故に遭った。運ばれた病院では、再起不能か、助かっても植物状態になるかもしれないと言われた。ところが手術をしたのは日本有数の脳外科医。意識不明から三日で気がついた。前頭部を激しく打ちつけて、「額がぐちゃっとなった」ほどだったが、半年間に4回手術を繰り返し、「記憶力は抜群に悪くなった」というが、身体の後遺症はほとんどない。
事故も失業も、柳沢さんだからこそ与えられた試練なのだろうか。そんな柳沢さん、目下、お客さんたちから夏祭りに一緒に行こうとか、釣りに行こう、と誘われている。
「お昼までしか売れなくなるけど、楽しみもないと長続きしないからね」。再び冬が来る前に、柳沢さんの葛藤も、うまく「解決した」と信じたい。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
この記事が掲載されている BIG ISSUE
34 号(2005/09/01発売) SOLD OUT
特集希望よ。ゲスト編集長 玄田有史さん