販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
佐藤光雄さん
夢は、アパート借りて、美川さんのアルバムを思いっきり聴くこと
赤坂見附で販売を続ける佐藤光雄さん(53歳)。今年8月にビッグイシュー販売者に登録した佐藤さんは、新宿で販売を開始し、10月に赤坂見附に移ってきたばかり。国会議事堂や中央官庁からもほど近い赤坂見附は、サラリーマンや学生が多く、販売しやすいという。お客さんから目立つようにと、いつもビッグイシューのロゴが書かれた赤いキャップをかぶっている。
「通勤時間帯の8時半から10時と昼休み、あとは夕方を狙って販売しています。最近は、『寒いね』とか、『頑張って』とか、声をかけてくれる人が増えてきたのがとても嬉しい。人通りが多い場所なのでなるべく大きな声を出すようにしているんですよ」
佐藤さんは栃木県下都賀郡の出身。故郷は浅草から東武日光線快速で一時間半の場所にある。「古い蔵がたくさんある、情緒漂ういい街なんですよ。28歳の時に故郷飛び出してから、まだ一度も帰れていないんだけどね」
佐藤さんは中学卒業と同時に地元の食品関連会社に就職。ジャムやマーガリンなどを製造する工場のラインで働いた。「マーマレードやイチゴ、リンゴジャムなんかの甘い匂いが工場にはいつも漂ってたね。私は主に学校給食に出されるような小さなジャムを製造するラインを担当していたんですよ」そこで十数年を過ごした佐藤さんだったが、単調な毎日にどこか物足りなさを感じていたのもまた事実だった。
「昔から免許を取りたかったんだけど、会社が終わった後じゃ教習所に間に合わないってあきらめてました。でも十数年勤めたから、少しの融通を利かせてもらえるんじゃないかと会社に頼んでみたんですよ。ところがあっさり断られちゃって・・・…ずっと長いこと働いてきたのにひどい仕打ちだと思って、それで仕事辞めちゃった」念願の免許は取得したものの、仕事をせずにフラフラしているうちに、家族との折り合いも悪くなり、佐藤さんは住み慣れた実家を出ることになった。
「この際だから東京に行ってみようと思って、何のツテもなかったけど、とりあえず田舎を出ることにしたんです」工場での就労経験しかなかった佐藤さんは、建築関係の日雇い仕事に従事することになる。当時は景気が良く、建設の仕事はいくらでもあった。「トビの手伝いをする"手元"が多かったね。コンクリ打ちとか清掃とか、なんでもやりましたよ。でも景気後退と同時に仕事も減ってきて、収入のない日が続いたんだ」
初めて路上で寝たのは43歳の時。以来建築の仕事がある時は飯場で、それ以外の時は路上で生活するという繰り返し。路上から抜け出すきっかけをつかみたいと、生活保護を申請したこともあったという。「2度ほど福祉の世話になったけど、うまくいかなかったね。生活保護を申請すると、すぐ仕事を探さなきゃいけない。それで日雇いの仕事を探して働き始めると、すぐに保護がなくなるでしょう。でもすぐまた日雇いの仕事がなくなっちゃって、家賃を払えなくなって路上に行くしかなくなる。結局その繰り返しなんですよね」
自分の力で安定した仕事を見つけ、自立するしかない――そう考えるようになった佐藤さんは、仲間に紹介されたビッグイシューの販売にトライすることにしたという。
そんな佐藤さんには、自分の命の次にといっても過言でないほど、大切なものがある。それは"美川憲一"だ。「昔からの大ファンで、レコードもすべて持ってるよ。昔品切れでどうしても手に入らないレコードがあった時、ファンの署名かき集めて、もう一回つくってもらえないか事務所に掛け合ったこともあるんですよ。100人以上集まったのに、それじゃ話にならないって断られて(笑)。その話を美川さんに会った時に話したら、『それなら家に何枚か残っているわよ』ってプレゼントしてくれたんですよ」
美川憲一の話となると、断然口が滑らかになる佐藤さん。たとえ衣食に事欠こうとも、ファンクラブの会費だけは毎年欠かさず納めてきた。NHKホールで録音される公開歌番組には、今も必ず出かけて行く。「もうすぐ紅白だね。今年ももちろん行きますよ。美川さんには路上生活してることは話してません。心配すると思うから。今の目標は、ビッグイシューをたくさん売って、アパートの資金を貯めることですね」
美川さんの大切なレコードは、"ある秘密の場所"に大切に隠してあるという。iPodもウォークマンも持たない佐藤さんにとっての小さな夢は「アパート借りて美川さんのアルバムを思いっきり聴くこと」なんだそうだ。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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