販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

伊藤春夫さん

人としゃべり、売れる楽しさ忘れられず、ビッグイシューに復帰

伊藤春夫さん

伊藤春夫さん(42歳)は昨年11月半ばから、JR駒込駅南口でビッグイシューを販売している。営業時間は会社帰りの人が姿を見せ始める17時頃から、人通りがまばらになる21時半頃まで。ようやく1日の売り上げが10冊を超える日も増えてきた。

きっかけは昨年1月、ホームレスの人々を対象とした相談所で見た、販売者募集のチラシだった。
「70代の販売者もいると書いていたので、俺にもできるんじゃないかと思いました。とはいっても、人と接する仕事といえば、キャバクラの呼び込みぐらいしかやったことがなかった。勝手に売っていたら、ヤクザ屋さんが来るんじゃないかとか、中高生にからかわれるんじゃないかという不安もありました」

実際始めてみると、そんなことはなかった。それどころか、普段は接点のない女子高生から話しかけられたこともある。「『この間、ビッグイシューのイベントにお姉ちゃんと参加したよ』と話しかけてくれて、初対面なのにコイバナまで打ち明けてくれた」。その無邪気さに癒やされた。

区の職員から宿泊できる施設があると聞き、半年ほど販売を休んでいたこともある。しかし、現実は厳しく、「中卒という学歴が邪魔して、ハローワークに行っても仕事なんか見つからなかった」と言う。
「ビッグイシューは人としゃべれるし、売れると楽しい」。その感覚を忘れることができなかった伊藤さんは、再びビッグイシューに戻ってきた。 伊藤さんの生まれ故郷は秋田だ。父は会社員、継母は専業主婦だった。
「父は酒癖が悪くて、酔うと包丁を持って暴れ、そこらじゅうの物を割りました。口の中にガンが見つかった時も、『俺は飲まなくても死なねえよ』って、看護師さんからもらった薬を病室の窓からポイポイ捨てていました」

そんな父も60代前半で亡くなり、まもなく母も亡くなった。
「おふくろが死んだ時は、兄が半狂乱になって、『起きろ、起きろ』って叫んでいました。でも俺は、どっちが死んだ時も涙は出ませんでした」 唯一の肉親として残った兄も、アパートの家賃を滞納して行方不明となって以来、連絡の取れない状態が続いている。

伊藤さんはこれまでに、いくつもの仕事を経験している。中学を卒業後、上京して始めたのは新聞配達だった。午前2時に起きて支度を済ませ、6時には配り終えなければならなかったが、いつも時間を過ぎてしまった。精いっぱいやっているつもりだったが、販売所のおやじさんからは「遅いじゃないか」と叱られた。

いったん秋田の実家へ戻った伊藤さんは、キャバクラの呼び込みを始めた。道行く男性に夕方から夜中の1時までティッシュを配り、「いかがですか」と声をかけた。しかし、呼び込めた人数に応じてもらえる報酬は不安定なものだった。

病院の手術着などを洗うクリーニング工場でも働いた。たまに注射針が混入していることもあり、危険と隣り合わせだった。それでも和気あいあいとした雰囲気が気に入って、6年間勤めた。そこへ「殴る蹴るは当たり前」と考える上司が来て、いやになり辞めた。

20代後半で再び上京し、しばらくは派遣社員として工場を転々とした。その契約も切られ、会社の寮を出てからは路上での生活が続いている。
「地面にブルーシートを敷いて寝袋に入り、頭からすっぽり上着のフードをかぶって寝れば大丈夫。秋田の寒さを知っているから、東京の冬はまだ耐えられます」 初めは伊藤さん一人だった場所も、現在は10人近くが寝起きしている。

教会の炊き出しにも助けられたが、販売を始めてからは、「どうしても食費が足りない時だけ。多くても週に1度しか行かない」と決めている。「ぶっかけにキムチをのせたようなものが振る舞われ、寒い時は身体が温まる」そうだ。

ビッグイシューを手に立っていると、勘違いして「何だ、カンパがほしいのか」と言う人もいる。そんな時は根気強く、雑誌の仕組みと趣旨を説明する。 「売れなくてため息ばかりついている時、母親世代の人からの『がんばって』は特にうれしいものです」

めったに行けないが、息抜きは個室ビデオ店で、大好きなプロレスのDVDを鑑賞すること。「実は、プロレスのリングアナウンサーを夢見たこともあります。レフリーでもいいから、一度リングにあがってみたいと今でも思っています」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

この記事が掲載されている BIG ISSUE

135 号(2010/01/15発売) SOLD OUT

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