販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

三井辰郎さん

自分を見つめ直すタイミングと勇気と元気をくれたお客さんに感謝の気持ちを伝えるお礼状

三井辰郎さん

JR秋葉原駅なら昭和通り口、都営新宿線岩本町駅ならA3出口からほど近い和泉橋の南端に、三井辰郎さん(48歳)は立っている。平日の11時~18時までで、一日の売り上げはまだ目標には届かない。しかし、お客さんは男性が51・3パーセント、女性は43・1パーセント、あとはカップルや親子連れ……と、三井さんが毎日記録しているデータはかなり細かい。
昨年6月に販売を始めて以来、顔なじみのお客さんも増えた。遠くから姿を見つけて、「元気でがんばってくださいねー」と叫びながら手を振ってくれる女性がいる。勤め先の居酒屋へ向かう途中、いつもバックナンバーを買ってくれる男性がいる。彼らに感謝の気持ちを伝えたくて、三井さんは125号(8月15日発売)から手書きのお礼状を挟むようになった。
三井さんは東京で生まれ、東京で育った。下には弟が2人いる。中学の頃、父が事業で失敗した。「債権者が放つヤクザに、やいやいやられたのを覚えています。高校は授業にも出ないで、バイトに明け暮れていたら退学になりました」
そんな折、知り合いのアニメーターからスタジオを紹介された。「家の食いぶちを減らしたかった」こともあり、住み込みで新聞配達をしながらアニメ制作の仕事を教わった。
2年かかって、作画監督からようやく「近頃変わってきたね」と認められるようになった矢先、社長の使い込みが原因で会社が倒産した。その後は看板屋の手伝いをしたり、イラストを描いたりして、どうにか糊口をしのいだ。
バブル景気が始まって間もない87年、チャンスが巡ってきた。あるベンチャー企業が、文化事業の一環として漫画家の育成を始めたのだ。三井さんはそこで2年間、給料をもらいながら漫画を描いた。企業の依頼を受けて、業務の内容を漫画でわかりやすく描き起こす仕事もした。ペンネームで『走れ、ふたつの車輪!』という、経済をテーマにしたコミックも出版した。
契約が切れると三井さんは、行楽施設や路上で似顔絵を描く商売を始めた。女性と子どもを連れて、「似てなかったらぶっ殺すぞ、てめえ」とすごむヤクザも、仕上がりを見て満足してくれた。表参道の路上では芸能事務所のスタッフに頼まれて、人気アイドルの誕生日に贈る似顔絵を描いたこともある。
しかし、似顔絵だけでは生活が苦しく、たまに日雇いの解体作業にも出た。この頃にはアパートを出て、ネットカフェで寝起きするようになっていた。ある時、解体現場でコンクリートの塊から突き出た鉄筋が顔を直撃し、6針縫うけがを負った。「顔がお岩さんみたいに腫れ上がって、人前に出るのがいやになりました。10代の頃からペンを持ち続けてきた右手の腱鞘炎が悪化したことも重なって、似顔絵と解体作業の両方をやめました」
それから5年間は派遣社員として、倉庫内でパソコンの検品作業を監督する仕事をした。真面目に働いたが昨年の4月、突然契約を打ち切られた。
「不況とはいえ、少しは単発の仕事もあるのだろうと甘く見ていました。一ヵ月、ほぼ毎日問い合わせの電話をしましたが、仕事は1件もありませんでした」
所持金が数百円になった5月下旬、三井さんは公園のベンチで横になってみた。痛くて眠れず、植え込みの陰になった地面に身を横たえると、今度は寒くて眠れなかった。ダンボールを敷いて、新聞紙を身体に巻きつけ、孤独な夜を過ごした。
福祉の窓口にも相談したが、いいアドバイスは得られなかった。そんな時、ビッグイシュー基金のボランティアが路上で配布していた『路上脱出ガイド』を通して、ビッグイシューの存在を知った。
販売を始めてひと月経った頃、高校生の女の子が1冊買ってくれた。これは三井さんにとって衝撃的な出来事だった。
「ビッグイシューはお金に余裕のある人が買う、カンパ的要素の強い雑誌なのかと思っていました。だから、高校生が買うなんて想定もしていなかったんです」
そこでハッと気がついた。それまでは目の前に立ち止まった人が、ポケットや鞄に手を入れただけで期待していた。取り出したのが携帯電話だと、がっかりした。「いつの間にか、買ってもらうことが当然みたいになって、お客さんの顔が300円に見えていなかっただろうか」と、自分を戒めた。
「ビッグイシューには、自分を見つめ直す、いいタイミングをもらいました。そしてお客さんからは、いつも勇気と元気をもらっています」
 今年からは練馬駅西口にも朝7時~9時まで立ち、2通りのお礼状に、各々感謝の気持ちを込めている。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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