販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
岩村弘幸さん
手術の後遺症あるが、「2~3年は販売を続け、その後は就職先を見つけたい」
岩村弘幸さん(28歳)は、1ヵ月ほど前から渋谷駅東口東横のれん街前で販売している。生まれてすぐに患った水頭(すいとう)症の後遺症で、歩くと左足が少し遅れてついてくる感じだという。子どもの頃、医者からこう言われた。「20歳まで生きられるかどうか」
記憶力がよい岩村さんは、数字を正確に覚えている。1日の平均販売数は36・6冊、初めてビッグイシューを販売したのは2008年11月7日、といった具合だ。最初の販売は、大阪は堺東(さかいひがし)駅前で3ヵ月ほど。渋谷の前には、原宿でも3ヵ月販売した。原宿では1日15~20冊だったので、渋谷に移って着実に売り上げを伸ばしてきた。
岩村さんが販売を始めるのは、朝6時半頃。ネットカフェを出て、パンを食べ、タバコとジュースで「気合いを入れてから」販売場所に立つ。持ち場を離れるのは、夜7時過ぎだ。「今日も『朝早くから夜遅くまで、よくがんばりますね』と、お客さんに褒められました」
岩村さんは大阪府の郊外に生まれ、両親と2人の妹の5人家族。両親には仕事がなく、一家は行政の生活保護を受けて暮らしていたという。父親は怒りっぽく、物音にイライラしては家族を殴ったり、手近にある物を投げたりすることがあったそうだ。しかし、岩村さんは今も父親の病気が何なのかは知らない。
「(何の病気かは)知らないんです。精神ですね。お酒も飲みますけど、それが原因じゃないです。いっぱい怒られてましたね、家族みんな。物が飛んでくるんです。灰皿とかリモコンとか」。じゃあつらかったんですねと伝えると、「あはは」と笑うけれど、「もう家に戻る気はない」と言う。
岩村さんが患った水頭症は、脳の中心部に脳脊髄液がたまってしまい、頭蓋内圧が上がることで脳がダメージを受ける病気だ。今なら内視鏡手術も可能だが、当時はリスクを伴う開頭手術を避け、脳から腹腔にかけて体内に細い管(シャント)を通す治療法が一般的だったという。そのシャントは、岩村さんの体内に今も埋め込まれたままになっている。治療が十分ではなかったこともあり、左足には後遺症が残った。
「左足をかばってしまうから、足の太さが違うんですね。頭や身体のあちこちに手術のあとが残ってて、左足には水ぶくれのあとも。ちっさい時、お父さんがストーブに近づけすぎたらしくて」
中学を卒業して、岩村さんは養護学校に入学した。在学中にいくつかの企業で実習を受け、最終的に地元のスーパーに就職。青果売り場の加工を担当し、仕事はおもしろかったが、4年目に入った頃から徐々に従業員の労働時間がカットされるようになった。岩村さんが家を出たのは、4年3ヵ月勤めたスーパーを辞めてすぐのことだ。
「お父さんが嫌やったから。両親に連れ戻されては、誰もいない時にこっそりと家を出る。しばらくは、そのくり返しでした」
たこ焼き屋や工場での派遣労働などの仕事を転々としたが、流れ作業についていけず、作業が遅いという理由で辞めさせられたこともある。「不器用なんですよ。向いているのは、水商売かな」と言う岩村さんは、26歳の時から1年半、キャバクラのボーイを務めた。
家を出たその日から路上で寝ることに抵抗はなかったが、住み込みや寮・マンション完備の職場を選んだため、路上生活はこれまでのトータルで1~2年だという。大阪でのビッグイシュー販売を経て、東京に来たのが昨年の1月15日。そのうちに東京での路上生活がきつくなり、再びビッグイシューの門を叩いた。
身体の方はすぐにでも再治療が必要なように思えるが、岩村さんにはためらいがある。 「また手術のあとが残るのは嫌だから、このままの方がいいんです。シャントを外すために手術したら、助からない場合もあるし。でも、今のままの生活やったら、この先どうなるか不安ですね」
20歳まで生きられるかどうかと言われた岩村さんだが、「今度はおじいちゃんになるまで生きられるかどうかですよね」と前向きな気持ちもある。そして、「とにかく2~3年は販売を続けるとして、その後は就職先を見つけたい」。岩村さんは最近になって、ビッグイシュー基金での貯金も始めた。朝から晩まで声をからしてがんばっている岩村さんを応援したい。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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特集耳すます