販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

大西裕さん

こんな自分でも、精一杯生きたいと思うようになった

大西裕さん

大阪船場の繊維問屋街にほど近い心斎橋筋商店街。大西裕さんは昨年11月から、この商店街の角に立つようになった。お客さんの約80%は繊維問屋に買い物に来る主婦層。一見客が多いため、1日の売上げの半分近くをバックナンバーが占める。「いつも在庫を切らさないように心がけています」と大西さん。

街頭に立つようになってもうすぐ1年が経つが、贔屓にしてくれるお客さんとのエピソードは数知れない。「主婦の方は皆さん親切でね、寒い日にはカシミアの毛布を持ってきてくれたりするんです。この前なんか、髭剃りの傷からバイ菌が入って顔を腫らしていると、薬一式を持ってきてくれた人もいて。今頃になって人の思いやりだとか、人間にとって大切なものが何かわかったような気がしています」と言う。

奈良県生まれ。大学を卒業後、特にやりたい仕事がなかった大西さんは、堅くて安定しているという理由で信用金庫を勤務先に選んだ。
「当時の職場は本当に忙しくてね、財務局が審査に入る時は1週間ぶっ続けで泊り込んだこともある。でも、残業ばかり多くておもしろい仕事じゃなかった」。結局、20年勤めたが、「もう少し違う世界が見たい」と早期退職制度を利用して辞職。

その後、大手保険会社の外務員やパチンコ店員、中華料理店などの職を転々とした。どんな職場でも、「お金に困ることもなく、苦労知らずだった」と言う。そのためか、好きなパチンコだけはどうしてもやめられなかった。

「ほんと、びっくりするほどのお金をパチンコに費やしてきました。でも、博打で稼いだお金は残らないんですよね。ずっと恵まれた環境にいたのに、その日さえよければいいという感じで生きてきてしまった」と振り返る。 最後の職場となったスーパーの青果売り場でも、パートのおばさんたちから「年が年なんだから、貯金をしないと」と口すっぱく言われたが、耳を貸さなかった。その言葉通り、仕事がなくなると、生活はアッという間に行き詰まった。

「きっと、バチが当たったんですよ。いつも周囲の人が心配してくれていたのに、それに応えようとしなかったから…」。ホームレスになった今は、冷静に自分の人生を反省することができる。 だが、悔やんでも悔やみきれない出来事もある。昨年、久しぶりに母の墓参りに出かけた時、その母の墓標に一緒に並ぶ父の名前を見つけたのだ。墓石には、「享年88歳」と記されてあった。「父には迷惑をかけ通しで、勘当されて敷居も跨げなかったけど、せめて最後に一度だけは会っておきたかった」と残念そうに話す。

両親の面倒を最後までみた4つ下の弟は今も健在だが、長い間連絡を取っていない。「弟にはお金のことで迷惑かけてきたから、もう顔見せはできないんです。もし会うとしたら、あの世に行ってから。その時に、誠心誠意、謝りたい」

大西さんは、今も中之島近辺で野宿をしている。大のコーヒー好きで、仕事の合間に喫茶店で長居する大西さんの楽しみは、読書と音楽鑑賞。バッグの中には、好みのCDと本がぎっしりとつまっている。「中学の時に急性腎炎で入院したんだけど、その時に父が退屈しないように本を買って来てくれてね。『吾輩は猫である』を一人で笑いながら読みましたよ。本を読むようになったのは、それからですね」。ドストエフスキーの『罪と罰』やスタンダールの『赤と黒』などの名作をもう一度読み直したい、と言う。

CDも、XJAPANから高橋真理子、五木ひろしまで実に幅広い。五木ひろしは、離婚した妻が大ファンだった。一緒にコンサートに行って握手してもらってからずっと聴くようになった、と懐かしそうに話す。XJAPANも中華料理屋で働いていた頃、若い社員に教えてもらった思い出の品。「コレを聴いていると、なんだか生きる勇気が湧いてきてね。こんな凄いロックグループが日本にいたなんて、ほんとびっくりしたよ。知った時はもうグループが解散した後で、ナマで聴きたくても聴けないのが悔しい。ほんと、何をするにしても、気づくのがいつもちょっとだけ遅いんだよね」

今の目標は?と聞くと、「家を借りて、ゆっくりテレビが見たい」「それから、長生きがしたい」とも。そう思うようになったのは、最近、読んだ五木寛之の著書『大河の一滴』で、こんな一節を見つけたからだ。「人間は生きていることに価値がある」。その言葉に胸がしめつけられた。「どんな人間でも死んだらおしまい。こんな自分でも、この世に生を受けたからには精一杯生きなければと思うようになって。だから、厚かましいと言われるかもしれないけど、父に負けないよう88歳まで生きたいと思っています」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

今月の人一覧