販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
五味川祐太郎さん
従業員3人のアットホームな会社に就職。生活も安定して「仕事は楽しい」
五味川祐太郎さん(23歳)は、2009年の7月から10月半ばまで駒込駅南口で販売し、卒業して約一年が経つ。その年の9月初旬、ホームレス・ワールドカップのイタリア・ミラノ大会に出場した8人のうちの一人だ。この大会には一度しか参加できないと決められているが、五味川さんは現在もフットサルの練習を続けている。 「自立が目的だから、生涯に一回だけ。そこで何かをつかんで帰ってくださいということですよね。改めて考えてみると、世の中で一番大事なのは"人とのつながり"だってこと。これが、僕がミラノ大会で得た自分なりの結論です」
五味川さんはまず、到着後すぐに行われたパレードで、白いヘルメットをかぶり、顔を真っ赤に塗って登場したそうだ。浴衣の上にマントのように羽織った日本国旗をひるがえして歩く姿に、あちこちから「ジャパニーズ・ヒノマルマン!」と声がかかり、一躍人気者に。その後の試合でも「ヒノマルマン、ゴー! シュート!」と、あらゆる人からたくさんの声援を受けたという。
「試合で勝つと自信になるから、一勝だけでもみんなに味わってほしかった」とチームの結果を残念がる五味川さんだが、個人としては、1日一人選ばれるフェアプレー賞を2日目に受賞。そして五味川さんは、その賞金100ユーロをカンボジアの選手たちのために使ったという。夜寒くて眠れないという選手たちに暖かいスポーツウェアをプレゼントしたのだ。
「平均年齢が17歳のカンボジアチームの選手たちは、弟みたいな感じでした。当時はカンボジアとタイの関係が悪くなっていて、カンボジアの子らは、タイに入国拒否されたためにミラノ到着が遅れたらしい。残り数日になって、しかもギリギリ出場可能な4人のメンバーだけがやっと会場入りしたんですよ。監督やコーチにも大事にされていないようで、いつしかみんな僕の後をついてくるようになって。身振り手振りでのやりとりだったけど、お互いに言いたいことがすぐにわかった。その時、"ボール一つで世界がつながる"って本当にその通りだなぁって」
空港で別れる時、カンボジアの選手たちは、五味川さんが「もういいから」と送り出しても、何度も戻ってきては頭を下げていたという。
帰国した五味川さんは、翌2010年2月頃から今の仕事に就いている。自由が丘で古紙回収と牛乳配達をしている会社だ。野武士ジャパンの練習を見に来た社長が、販売者を雇いたいと、働きかけてきたという。「生活は安定しているし、今の仕事は楽しい」。五味川さんの愉快な会社の裏話を聞いていると、従業員3人のアットホームな会社で、のびのびと働いている様子が伺える。
五味川さんは、小学生の時からサッカーが好きで、荒川の河川敷でよく友だちと遊んだという。「気がついたらいつの間にか夜10時を回っていたことも多かった。小・中学校ではサッカー部にも入っていて、河川敷で遊ぶ体力を残すために授業中は寝てました(笑)」
小学生の時に母親が糖尿病で倒れ、ほかに家族がいなかった五味川さんは小学6年生から高校卒業まで児童養護施設で暮らしていて、その間はサッカーにアルバイト、学校ではいろんないたずらもして楽しい日々だったそうだ。しかし、高校を出て以来、就いた仕事はどれも運悪く辞めることになり、最後に派遣先から急に仕事を打ち切られ、ネットカフェに寝泊まりしていた頃は「たぶん、やけになっていた」という五味川さん。4日間、水しか口にできなくて最後に頼ったのが、自分が育った児童養護施設だったという。
「高校を出て一ヵ月後に母親が他界して、最初に就いた仕事は1年後には辞めることになっちゃって。人生のグラフは下がりっぱなしだった。そうやって沈んでいたのが、今は右肩上がりで、楽しい時期が戻ってきたのかなという気がする。この楽しさをいつまで続けられるのかわからないけど、今はとにかく、その日その日を好きでいようと思う」
ミラノ大会には50人以上のボランティアがかかわり、野武士ジャパンを支えてくれた。大会前に実現したフットサル日本代表選手たちとの練習試合は「めちゃくちゃうれしかった」。そして、練習を続けてきたことが社長との出会いにもつながった。
「卒業した今の僕にとって、ビッグイシューは心のよりどころ。他のみんなにとってもそうだと思う。だから、必要な人がいるかぎりこれからもずっと続いてほしいし、そのために自分にできることをしていきたい」
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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