販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

大城実さん

あこがれた海外協力隊、ブラジルでの記憶喪失。 この先10年は畳の上で穏やかに暮らしたい

大城実さん

「寒い日には『身体に気をつけて』と声をかけてくれたり、おにぎりを差し入れてくれたり、お客さんのそんな温かさに支えてもらっています」と話すのは、阪急・上新庄駅の南口付近でビッグイシューの販売をしている大城実さん(69歳)。

大城さんは8人きょうだいの長男として戦前の沖縄に生まれた。祖父は村長、父は大学の教員を務めたこともあり、経済的には比較的余裕のある家庭に育ったという。高校時代には勉強に加えて生徒会長や応援団長など、興味をもったことには積極的に取り組んだほか、駅伝の県大会では選手の一人として二連覇、バスケットボールでも準優勝も果たしたスポーツ少年。

「好奇心旺盛で、とにかく行動派でしたね。高校卒業後は、本土の大学に進みたかったのですが、父からは地元の琉球大へ進むようにと強く言われて……。当時の私はそれを受け入れられなくて、琉球大の入試の日に父には内緒で海外協力隊の試験を受けに行ったんですよ。でも、新聞に協力隊の合格者名が掲載されて、すぐにバレてしまって(笑)」

家を継ぐ長男と考えられていたこともあり、海外行きには家族一同大反対。しかし、「世界を見てみたい」という思いに溢れていた大城さんは、派遣先のブラジルへ。
「サンパウロの中心部から車で2時間ぐらい走ったところにある日系人が経営する大きな農場で、クレソンなどの野菜を作るお手伝いをすることに。私はトラクターや耕運機、トラックを運転できたから重宝されましたね」

夜中の3時に起きて野菜を積み込んだトラックに乗り、2時間かけて街の市場へ。野菜を卸したあとは、農場に戻って収穫作業や翌日の準備。1年後にはポルトガル語も流暢に話せるようになっていたという。

「結局、ブラジルには6年ほどいたのかな。協力隊を離れて自分で始めた商売も順調で、現地の女性と結婚して子どもも生まれました。でもある日、道路で信号待ちをしていたら大きなトラックにぶつけられて、意識不明になってしまってね。2ヵ月後に意識が戻ったあともしばらくは記憶喪失で、妻と子の顔さえわからない状態でした」

治療のために帰国を決意し、妻子を連れて沖縄の実家へ戻った大城さん。2年ほどは治療やリハビリに専念する日々を送った。
「でも、日本になじめなかった妻がホームシックに陥って、ブラジルへ帰りたいと言い出してね。私はもう身体に自信がなかったから、また海外で生活するということは考えられなくて……。つらかったけれど離婚することになり、妻と子はブラジルへ帰りました」

体調がある程度回復すると、「そろそろ働かなくては」と仕事を探しに大阪へ。建設会社に就職したが、勤めて5年が経った頃、同僚が作業中に3階の高さから転落するという事故に遭遇。大城さんは大きな精神的ショックを受けて退職することに。その後は長距離トラックやタクシーの運転手として働いていたが、知人に誘われて仕事終わりに自宅近くで軽く1杯飲んだビールが原因で、運転免許を取り消されてしまう。

「それからは飯場で仕事を探すようになりました。でも、不況に加えて、高齢だから本当に仕事がない。食事代と宿代で1日3000円を引かれるから、週2~3日しか仕事がないと完全に赤字。そのうち安いドヤにも泊まれなくなって野宿が始まりました」

ある日、路上で寝床を整えていると、自転車に乗った若い男性がサンドイッチや飲み物を差し入れてくれた。そして、ビッグイシューのことを話し、事務所の住所や電話番号を紙に書いて渡してくれたという。
「あまりにも親切だったから、違法な運び屋の仕事にでも引っ張られているのかなと最初は半信半疑だったんです。でも、その親切を信じてみようと思って、翌日に事務所へ向かいました」

そして昨年末から街角に立ち始めた大城さん。高血圧や膝痛などを抱えながらも、できるだけ休まずに立ち続けたいと話す。
「来年は70歳。人生80年だから、この先の10年を畳の上で穏やかに暮らすことができたらいいな。そのためにしばらくこの仕事をがんばって、お金を貯めてアパートを借りたいですね」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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