販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

坂田俊彦さん

買ってくれたお客は、みんな心の中に残ってる。 販売中は安心、いつ倒れても お客が救急車を呼んでくれると思える

坂田俊彦さん

「昔から働くのが好きでね。26年ぐらいホームレスやってるけど、そのあいだに働かなかったことは一度もないくらいだよ。おれの歳? 5月で70歳」
そう言ってにっこり笑いかける、坂田俊彦さん。ピンと伸びた背筋に、ハキハキした声で「おはようございます」「こんにちは」という声を、大阪・肥後橋のビジネス街に響かせる。
「今はだいたい朝の5時前に起きて、7時半までに売り場へ行ってるよ。その時間に起きないと、朝ご飯を食べてゆっくりできないからね。それで3時頃まで販売して、事務所とスーパーに寄ってから、ねぐらに帰るんだ。料理はぜんぶ自分で作ってる。昔からいろんなことをやってきたからね。やってないのは泥棒ぐらいだよ」
もともとの出身は、神奈川県。小中高大と地元で過ごし、若い頃は、横浜、新宿、原宿、銀座が遊び場だった。
「小学生の時は肋膜炎に感染して、入院こそしなかったけど、学校を休んでもいいって言われてたの。でも、おとなしくしてるのはつまんないし、もう死んでもいいやと思って、中学の時にバレーボール部へ入ってね。そしたら、健康には何の影響もなかったの。それからは運動部の青春を過ごしたよ。朝の6時から夕方の7時まで、ずーっとバレー。中学、高校と、正月休み以外は無我夢中でやってたね」
しかし、大学でもバレーを続けていたある日、転機が訪れる。
「春休みが終わって2年生になった時、『東京オリンピックに向けて、日本も今年から6人制にする』って、ルールが変わったの。それで『背の小さいのは要らない』って言われてさ……。一所懸命やってたのに、突然だったよ。文句は言わなかったけど、その時に切れたんだよね、人生が。自分の中で何かがプツっと切れたんだよなぁ」
坂田さんはその後、大学にはほとんど行かず、喫茶店でバイトをしたり、キャバレーでバンドマンをしていた。
「とにかく、いろんなことをやったよ。バレーができなくなったことで、それに代わる生きがいを探してたんだね。一応、サラリーマンをやったこともあるよ。経理の仕事だったけど、ある時、銀行に5円玉を両替しに行ったら、昔の5円玉がたくさん交じっててね。それを転売すれば10万円ぐらいの価値があったんだ。それで古銭を勉強してお店を始めるんだけど、大量に仕入れた中国の古銭が値崩れを起こして、借金を背負った。立ち向かう気力もなかったよ。それで地元から逃げちゃったわけ。ホームレス状態になって、関西に移動してきたんだ」
それから坂田さんは、古銭と共にたくわえた骨董品の知識を活かし、粗大ごみに交じっている品物を見つけては、暮らしを支えた。
「10年ぐらい前には、大阪の淀屋橋の上に引っ越して露天商をしてたよ。家はなかったからクルマの中で寝とったけどね。20年間ぐらい一度も布団で寝たことはなかったなぁ」
それでも、こういう生活を続けていたら「いつか病気になる」と思い、ビッグイシューの事務所を訪れたのが2年前のこと。
「ビッグイシューで働く体力ならまだあるだろうと思ってね。そしたら病気が発覚。身体の栄養がぜんぶ流れてしまう病気でね。その頃は37キロしかなかったんだよ。みんなが『おかしいよ、おかしいよ』って言ってくれて、それが治りかけてきたら、また販売がしたくなったんだ」
これまでは一日中働きづめで、少しでも多くの稼ぎを求めてきたという坂田さん。そんな考えが最近、少しずつ変わってきたという。
「ビッグイシューの仕事って素敵な仕事だよ。なぜって、儲けるためだけにやってるわけじゃないでしょう? 買ってくれたお客さんたちは、みんな心の中に残ってる。結局、お金は足りればいいんだ。そう考えれば、心の中が平穏になって他のことを考える余裕もできる。おれみたいに事情があって逃げてきたホームレスの人は多いけど、今はそういう人を支援してくれるNPOがいろいろあるから、若い人たちがもう一度前を向いて歩いていけるように、みんなが力になってあげてほしいなぁ」
最近気になっているのは、孤独死のニュースが多いこと。
「おれもね、自分で思うんだよ。部屋で倒れた時にどうにもならないなぁって。そういう意味で販売中は安心なんだ。いつ倒れてもいい。お客さんが救急車を呼んでくれると思えるからね。今はビッグイシューが生きがいだよ。ガリガリになるまで働いちゃダメだけどさ。バスツアーでいつか故郷の湘南をもう一度見たいなって、それが今の夢なんだ」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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