販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
大舩夏雄さん
持病が悪化、厨房の仕事続けられなくなった。 働きかた自由、3度目のビッグイシュー
東京都多摩市の小田急・京王多摩センター駅。その南口に、大舩夏雄さん(57歳)は朝7時から午後3時半頃まで立っている。ショッピングセンターや大学が多い場所柄、お客さんは主婦や先生が多い。
「学生にあげるからって、必ず3冊買ってくれる外国人の女の先生もいれば、雑誌は買わなくても毎日挨拶してくれる人もいて、それだけでもうれしい」と大舩さんは言う。
大舩さんは青森の津軽で、男ばかり5人兄弟の末っ子として生まれた。
「事情があって家にいなかった父に代わり、おふくろが野菜を育てながら勤めにも出て俺たちを養ってくれた。とにかく、やかましい人だったけどね」
中学を出た大舩さんは「金の卵」として上京し、鉄工所で働いた。ところが半年後、倒れてきたH鋼(H型の鋼材)の下敷きになり、左大腿骨を複雑骨折。気を失わんばかりの痛みに「殺してくれ!」と叫んだのを鮮明に覚えている。以来、膝がうまく曲がらず、左右の足が違う長さになった大舩さんは身体障害者手帳をもっている。
「驚いて青森から飛んできたおふくろは、こっちだと給料が3倍くらいもらえるって喜んで、そのまま横浜にいる一番上の兄貴のところに居着いてしまった。俺も時々、兄貴の厄介になりながら建設現場とか、まだ日本で始まって間もなかったファミレスで働いた」
バブルの頃は割のいい仕事が増え、「競馬に注ぎ込んだりと、好き放題やっていた」という。しかし、そんな大舩さんにも悩みがあった。
「俺のいびきがすごくて、いつも飯場(建設現場の宿泊施設)の連中と喧嘩になるんだよ」 そんな折、知人から「大部屋が多い関東に比べて、関西の飯場は個室が多い」と聞いた大舩さんは、大阪の西成へ飛んだ。阪神淡路大震災が起こる前の年のことだった。
翌95年1月17日の早朝、兵庫県山中の飯場で現場へもっていく弁当を詰めていた大舩さんは大きな揺れに見舞われ、外へ飛び出すと、イノシシが走り回っていた。
それから4日間の待機を経て、大舩さんを待っていたのは神戸での仕事だった。
「1日目は釘を打ちつけてひつぎを作ったり、被災者の遺体が納められたひつぎを自衛隊の人たちと運んだりした。2日目は被災者に弁当を届け、3日目は傾いた家の中を片づけた。寺の屋根から瓦を落とす作業中に、腐っているところを踏み抜いて落っこちそうにもなったよ。そのまま1ヵ月くらい休みなしで働いていたら疲れちゃって、社長に挨拶して西成へ戻りました」
ところが、やがて景気は悪くなり、西成にいても仕事にありつけなくなった。野宿をしながら、炊き出しに並ぶ日も増えた03年のある日、大阪市役所の近くを通ると、ビッグイシュー創刊号を手に立っている人がいた。「何を売っているのか聞いたら、英国で始まってどうのこうのと説明してくれたけど、その時は何だかよくわからなかった」
仕事を求めて東京へ戻った大舩さんはその後、新宿中央公園で再びビッグイシューと遭遇。佐野代表を含む3人が、旗を掲げて販売者を募集していたのだ。さっそく販売者に加わった大舩さんは7、8人の仲間と新宿小田急ハルク前に立った。
「今じゃ信じられないけどさ、お客さんが列をつくって買いにきて1日80~100冊も売れる時もあったんだよ」
それからいったんビッグイシューを離れ、再び戻って来た大舩さんは新たな仕事を見つけ、この3年近く、大学病院の厨房で野菜を切る仕事をしていた。ところが今年1月、持病の糖尿病が悪化して入院。足が腫れ、退院後も厨房に立ち続けることが難しくなり、自分で販売時間を決められるビッグイシューに戻ってきた。
今年の猛暑は凍らせたペットボトルのお茶で乗り切った。それでも、どうしても疲れる時は息抜きに映画を観に行く。中でも好きなのは宮崎駿作品で、最新作『風立ちぬ』も、もちろん観たという。
「駅の売店を見ていると、新聞が飛ぶように売れてるじゃない? ビッグイシューもああいうふうに、もっと誰もが気軽に手に取ってくれる雑誌になればいいのにって思うよ」
将来の夢を尋ねると、そんな答えが返ってきた。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
この記事が掲載されている BIG ISSUE
223 号(2013/09/15発売) SOLD OUT
特集路上の驚き、そしてアート