販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
村山徹さん
リーマンショックで失業 資金を貯めて起業したい、漫画家になりたい夢もある
JR博多駅博多口の西日本シティ銀行本店前には、少年のようなすがすがしさを感じさせる村山徹さん(33歳)が立っている。営業時間は平日の正午から夜8時まで。お客さんは界隈のオフィスビルで働く女性が多い。「ビッグイシュー福岡サポーターズ」のブログで村山さんの書き込みを読み、買いに来てくれた人もいる。
今年の猛暑は2リットルのペットボトルを常備して乗り切った。長年、尋常性乾癬という病に苦しんできた村山さんだが、夏の間は陽に当たると患部が枯れ、症状が目立たなくなるのが救いだという。
気晴らしはファストフード店に自分のパソコンを持ち込んで、インターネット上で対戦するソーシャルゲームだ。「対戦相手がどこの誰かはわからないけど、つながっている感じが得られるので、一人でゲームをするよりはさびしくない」のだとか。
鹿児島で生まれた村山さんには会社員の父とパートの母、そして、おとなしい村山さんとは対照的な弟が一人いた。一番の思い出は、福岡で89年に開催されたアジア太平洋博覧会「よかトピア」に家族で出かけたことだ。
「できたばかりの福岡タワーに昇ったり、いろいろな国のパビリオンを巡ったり。まるで夢の国のようでした」
高校まで地元で過ごした村山さんは長崎の大学で情報メディアを専攻。1年留年して卒業後しばらくは福岡でフリーターをした。まもなく東京のIT企業に就職が決まり、企業のコンピュータシステムをメンテナンスする仕事を任された。
「ところが3年ほど勤めた頃にリーマンショックが勃発。会社の経営は傾き、クビになりました。再び福岡へ戻って、失業保険をもらいながら正社員の仕事を探しましたが、どうしても見つからず、事務所移転の手伝いや倉庫の荷物整理といった単発のアルバイトを転々としました」
そんな生活を4、5年続けた12年春、ようやく深夜のコンビニ勤務という長期のアルバイトを手にしたが、わずか3ヵ月後、深夜の勤務体制が二人から一人に変わり、新人だった村山さんは解雇された。
「その時はさすがに気力をなくして、やけくそになり、実家に戻ってニートみたいな状態になってしまいました」
両親は熟年離婚し、実家に一人残った母は何も言わなかったが、新聞社に勤めている弟が時折帰ってきてはかける「しっかり働かなきゃダメだよ、兄ちゃん」という言葉が、村山さんにはプレッシャーだった。
家に居づらくなった村山さんは「福岡に働きに出る」と嘘をつき、以前住んでいた福岡のアパートの軒下で野宿をした。その時に思い出したのが、会社員時代に東京で何度か買ったことのあるビッグイシューだった。ところが、いざ販売者にはなったものの3日で気力が尽き、生活保護を受給することになった。
その中で「自分が何を必要としているのか聞いてもらえず、わかりきった履歴書の書き方を形式的に教える就労支援のあり方」に疑問を感じた。また、「さんざん使い捨てにされてきた会社勤めに舞い戻るのか?」という葛藤もあった。そこで生活保護は打ち切ってもらい、今年6月、ビッグイシューの販売者として再スタートを切った。
「今の社会は集団からはずれる人間に冷たい。でもビッグイシューには行き場のない若者の駆け込み寺リバ邸(241号)や、ベネズエラの廃墟ビルに出現した世界最高層のスラム街(242号)が出てくる。そういう記事を読むと、会社に勤めてちゃんとした家に住むことだけが〝当たり前〟じゃないんだなと思う。むしろ、そんな枠にこだわりすぎて、社会にひずみが生まれている気がします」
今は「よかトピア」の会場跡地を望める場所で野宿をしている。「近くには僕と同じ野宿をしているおじさんが3人いて、『売り上げはどう?』とか声をかけてくれるんです」
村山さんは今、「ビッグイシューで資金を貯めて起業するのもおもしろそうだ」と思っている。漫画家になりたいという夢もある。『ドラゴンボール』世代の村山さんは、キャラクターを模写しながら、ひそかに漫画の練習をしている。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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特集アフリカゾウとともに生きる