販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
Nさん
日々の生活が記憶に残らないほど普通であることのありがたみ、今は実感。
売り場に立っている時だけは、社会の一員として同じ町の空気が吸えている気がする――。
277号(2015年12月、完売)の本欄で、自らの心情をそんな風に語っていたNさん(40歳)。ホームレスにとって、昼間の町は人の目が気になる完全アウェイ。唯一、ビッグイシューを売っている時だけが社会とのつながりを感じられる時間だった。あれから3年5ヵ月。すでにビッグイシューを卒業した彼と、かつての売り場である近鉄奈良線の学園前駅北口で待ち合わせた。
颯爽と現れた彼はスラリと背が高く、ちょっと格好いいお兄さんに変身していた。卒業後は介護職に就いているのだという。「あの記事のあと、販売者を辞めて、自分で仕事と住まいを探して、最初は1日派遣の仕事をしていたけど、福祉に興味があると言っていたら、長期の介護職を紹介してもらえて半年ぐらいで本採用をいただけたんです」
障害者や高齢者などの介護に従事して、すでに実務経験は3年。国家資格である介護福祉士の受験資格を得るまでになった。製造業で長く働いていたので福祉職は未知の分野だったが、転身のきっかけはビッグイシューの体験が大きかったと話す。
「モノづくりの仕事って、製品として結果が目に見えるので、自分が人の役に立っているという実感を得やすいんですけど、ビッグイシューの販売は自分がここにいてもいなくても変わらないんじゃないかと思ってしまって、ずっとモヤモヤしていました。人に道を聞かれたり、待ち合わせの目印になるのでもいいから、とにかく誰かの役に立ちたかった。その点、わかりやすく人の役に立てるのが、福祉の仕事でした」
販売者として路上に立ったのは、約半年。人の役に立てているのかと疑問を持ちながら、1日の販売時間から休日に至るまですべてを自分で決めなければいけないビッグイシューの仕事を「これほどしんどい仕事はなかった」と振り返る。ただ、辞める時に常連客のお父さんから言われた言葉は今も心に残っている。
「もう定年を過ぎているのに、毎日のように『勉強してくるわ』と言って売り場の前を通るお父さんがいたんですけど、最後に『役に立っているかどうかもわからない僕に、いつも声をかけてくれてありがとうございました』と挨拶したら、お父さんが『それは違うで』って。『役に立っているかどうかは自分で決めることじゃないよ、それはこっちが決めることだから』と言ってくれて。それで、すごく楽になりましたね。それから自分中心に仕事のことを考えるのはやめました」
実は、この日、Nさんは次の生活に向けて新たなスタートを切ろうとしていた。20年近く関係を断絶していた父のいる福岡に帰郷することを決めたのだ。福岡での就職先もすでに決まっているという。
「ウチは家庭環境がいろいろあったので、ずっと連絡を取っていなかったんですけど、去年、オヤジが倒れたのがきっかけで……。お互いに意地を張っていただけというか、親不孝ですよね、ほんと」 そう言って、販売者時代の売り場を遠目に眺めるNさんは少し名残惜しそうだった。「ビッグイシューにいた頃のことは、今でもいろいろ記憶に残っています。初めて路上に立つ前に、若いスタッフと一緒に立ち食いうどんを食べたことは昨日のことのようにリアルに思い出すんです。社会復帰してからのことはぜんぜん記憶になくて、昨日何を食べたかも覚えていないのにね(笑)。でも、日々の生活が記憶に残らないほど普通であることのありがたみを今は痛いほど実感しています。福岡に行っても、その普通さを忘れないでいたいですね」
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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