販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
米国・シアトル『リアル・チェンジ』販売者 ブラス・フェリックス
メキシコのオトミ族出身。米国の先住民は「家族のよう」
互いに助け合い、少しずつ前に進めば、いずれうまくいく
今年8月30日、シアトルのストリート紙『リアル・チェンジ』の販売者ブラス・フェリックスは、街の中心部にあるタワー、スペース・ニードルの下に群衆とともに立っていた。ジョン・T・ウィリアムズを偲んで開かれた集会に出席するためだ。10年前の同日、ネイティブアメリカンのウィリアムズは警官に銃で撃たれて死亡。多くの抗議活動が行われ、米国司法省による調査も行われた。
フェリックスの横には友人のマリア・ギロン。実は、彼女の息子オスカーも警官によって殺された一人だ。二人はオスカーの写真が入った長い横断幕を掲げていた。
メキシコの先住民オトミ族出身のフェリックスは、米国にいる先住民たちのことを「家族のようだ」と語る。シアトルに住む10年で知り合いも増え、「ホルナレロ」(スペイン語で日雇い労働者の意)たちの権利を擁護する団体も立ち上げた。「こうした活動をしていると、どうやって自分の身を守り、人を助けることができるかを学べるんだ」と彼は言う。
生まれ育ったのはメキシコ中部のケレタロ。より安定した仕事を求め、家族で米国の国境近くの街に引っ越したのは5歳の時だ。母親は観光客にオトミ族手づくりの人形を売り、父は建設業に携わり、10人の子どもたちもみな何らかの仕事をしていた。
10代になると友人たちはギャングの仲間入りをし、薬物の密輸に手を染めていた。しかしフェリックスは14歳の時、ましな仕事に就きたいと国境を越え、米国でブドウの収穫を手伝う季節労働を始める。仕事はハードだったが、収入はよかった。
その後結婚し3人の子どもに恵まれたが、結婚生活は13年で終わりを告げた。仕事を求めてさらに北上し、シアトルのあるワシントン州にたどり着くも、働いていた農場では小さなトレーラーの中で生活し、労働環境は劣悪だった。報復や逮捕を恐れてみな声を上げなかったが、フェリックスは「みんなで声を上げれば、必ずその声は聞かれるはずだ」と信じ、同僚たちにかけ合った。「声を上げないと、神様だって聞いてくれないからね」
フェリックスは米国に来て初めて「ホームレス」という言葉を知った。いつもはスペイン語で話す彼が、この言葉だけは英語になる。シアトルに到着して2〜3年は路上生活をしていたが、それは離れて暮らす子どもたちや両親に仕送りをするため。つらい時は、財布に入れてある末娘の写真に癒やされた。
毎年開催するこの集会も初めは5〜6人だったが、今年は70人ほどが参加したという。「ポコ・ア・ポコ(少しずつ)だね。物事にはすべてタイミングというものがある。機が熟すその時までは、外に出て、互いに助け合うのみさ」
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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