販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

阪口仁範さん

ずっと立ってることが名刺代わりだからね、この仕事は

阪口仁範さん

名古屋の地でビッグイシュー販売者が誕生したのは、2月15日。
場所は、レインボーホール、BUMP OF CHICKENのコンサート会場でだった。

「ビッグイシューのキャップかぶってたらね、それ見てファンの子たちがついてくるんだよ。もうBUMPの記事が載ってるのは知ってたんだね。それで、取り囲まれちゃってさ」と笑うのは、阪口仁範さん(57歳)。3人で600冊を売り切り、一人30冊分の売り上げを手にした残りは、名古屋でのビッグイシュー拠点をつくるための立ち上げ資金となった。

「ビッグイシュー名古屋ネット」の協力のもと、2ヶ月の準備期間を経て、4月15日に名古屋での販売が正式に始まる。JR名古屋駅、桜通口で、ユマ・サーマンが表紙の48号を高々と掲げた坂口さんの姿は、地元のテレビニュースでも放映され、1日で90冊を売り切った。

「今でもね、『テレビで見たよー』って、声かけてくれる人もいますよ。最初はこう、なんだかケツの穴がこそばゆいっちゅうのかねぇ」と照れ笑い。「今まで出張で大阪や東京に行ったときしか買えなかったのに、名古屋でも販売始まったんですね、って言ってくれる人もいたね」。そんなお客さんの声が励みになるのだと言う。

中学2年生の時に、大手建設会社に勤めていた父親の仕事の都合で三重県から名古屋に引っ越してきた。弟2人、妹1人の4人兄弟。だが、高校入学後すぐ両親が離婚したのを機に、三重に住む父方の祖母を頼って家を飛び出す。

その後4年間は、小学校のときの友達の紹介でベアリングをつくる工場で働いていたが、20代にさしかかる頃に再び名古屋に戻ってきた。「いっつも4人グループでつるんでやんちゃしてね。給料は酒と服につぎ込んでたね」。その後も工場での仕事を転々とした。

4年ほど前、車の部品を作る会社を辞めたのが、ホームレス生活の始まりだった。3食付きの住み込みの寮を追い出された時の所持金は4万円。名古屋一の繁華街、栄にあるテレビ塔の地下で布団を敷いて寝た。

初めは「なるようになるさ」と気楽に構えていたと言うが、気づくと2週間飲まず食わず。路上で倒れ、救急車で運ばれると、3週間の入院生活を余儀なくされた。「この頃が一番つらかったよね。どうやって路上で生活していけばいいのか、何も知らんかったわけやから」

その後、名古屋でも1日1食の炊き出しをやっていることを教えられ、それで食べつなぐ日々が1年ほど続く。「夜中起きてごみを漁って“エサ”探ししたこともあった。自分の性格考えたら、よくやったと思うよ」

そんな日々に転機が訪れた。「その日もさ、図書館開くまでベンチで待ってたんだ。でもなぜか、10時過ぎてもそこにいなければいけない気がしてね」。そこを顔なじみが通り掛かり、アルミ缶集めの仕事を教えてもらった。「その日から生活が変わった。あの時ベンチに座っていなかったら、人生が違ってたよね」

夕方から夜8時くらいまで、そして一旦寝床で寝て、朝の3時から8時半までの1日2回で22~23kgのアルミ缶を集め、2000円くらいの現金収入になった。単調だった生活にリズムが生まれる。

そして、1988年の設立以来、野宿者への夜回りや仕事づくり活動、支援者と一緒に共同で炊事、会食する活動などを行っている「野宿労働者の人権を守る会」を通して、ビッグイシューの存在を知る。

5月13日からは、新たに3人が販売者として加わった。「今日はあんまり売れなかった」「サラリーマンはあんまり買ってくれないねぇ」とこぼす仲間に、「俺も1ヶ月続けて、やっと最近サラリーマンが買ってくれるようになったよぉ。1時間で1冊しか売れないときもあるよ。でも、ずっと立ってることが名刺代わりだからね、この仕事は」と坂口さん。1ヶ月の違いだけれど、自分が通ってきた道だから気持ちがよくわかる。

「ホームレスってね、もうそれだけで、汚い、くさいって言われるじゃないですか。それが嫌でね」。服装に気をつけ、毎朝販売を始める前に周辺のタバコの吸殻などを拾う。

「おはようございます。これからビッグイシューの販売をさせていただきます」。一礼の後、赤いビッグイシューキャップをかぶって、坂口さんの朝は始まる。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

この記事が掲載されている BIG ISSUE

53 号(2006/07/01発売) SOLD OUT

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