販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

小泉隆さん

娘ぐらいの人がお金出してくれる。 人間を見る目がまるっきり変わりましたね

小泉隆さん

昨年9月から販売員になった小泉隆さん(57歳)が立っているのは、東京メトロ銀座線京橋駅3番出口を出てすぐの交差点。オフィス街のど真ん中だ。土日と祝日は客足がぱったり途絶えるため、JR有楽町駅の日比谷口に販売場所を移す。昼と夕方に取る15分程度の休憩時間以外は、朝10時から夜8時頃までほとんど立ち通し。1日の売上げは約30冊。多いときは40冊以上売れる。

「販売を始めるまでは上野の商店前にダンボールで風よけを作って、そこで寝ていました。今は高速道路の高架下に一人用のテントをそれぞれ張って、ビッグイシューの仲間と5人で住んでいます。5000円もするこのテントは『釣りはいらないよ』と、お金を多めにくれたお客さんの好意の結晶なんです」

今はテントで暮らす小泉さんだが、つい数年前まで生まれ故郷の静岡で、全国に30近い支店を持つ住宅会社の営業マンをしていた。成績は常に上位。バブルの頃は月に150万円もの収入があった。

「一人娘の嫁入り道具にと家を建ててやり、毎晩のようにクラブで高級酒を飲んでも、まだお金があり余っていました」

そんなとき、以前からよく面倒をみてくれていた上司が宇都宮で会社を興すことになった。部長職に就かせてもらうことを条件に、小泉さんは上司の誘いに応じた。ところが、その会社はたった3年で倒産。同居していた母を静岡に住む姉に任せ、妻とも離婚した。

「それから1年間、再就職先を探しましたが、過去の栄光を買ってくれる会社はなく、何度も年齢ではねられました。背に腹は換えられず、営業職をあきらめて薬品工場で派遣社員として働きました」

ようやく人生の再スタートを切ったかに見えた小泉さんに、ここでまた不幸が訪れる。昨年の8月、車を運転中に後ろから追突され、むち打ち症になったのだ。本人にはまったく過失がなかったにもかかわらず、会社側は数日にわたる欠勤を理由に退職を迫った。事情をいくら説明しても聞き入れられず、強制的に辞表を書かされた。ぎりぎりの生活を強いられていた小泉さんに、この苦しい局面を乗り切る経済的余力はなかった。手元に残った5万円を持ってアパートを出ると、当てもなく東京の上野へ向かった。

「上野は僕が大好きな町で、会社員時代、東京へ遊びに来るたびに必ず泊まっていました。新宿や池袋などの歓楽街と違って、気取らない雰囲気が好きなんです」

所持金が底を突くと、小泉さんは上野の教会で炊き出しの列に並んだ。ポケットには1000円も残っていなかった。そのとき、同じ列に並ぶ男性の煙草に目が留まった。

「ホームレスにしてはいい煙草を吸っていたので不思議に思って尋ねると、雑誌の販売をしているっていうから、僕にも紹介してほしいって頼み込んだんです」

その日から、小泉さんはさっそくビッグイシューの販売を始めた。営業経験があったため、人前で声を出すことに抵抗はなかった。お客さんのほとんどがスーツ姿で颯爽と歩く会社員。彼らを見るたびに、第一線で活躍していた頃の自分なら買っていただろうかと自問する。

「どこの馬の骨かもわからないおじさんが、ある日突然路上に現れて雑誌を売っている。そんな僕のために、自分の娘ほどの人たちがお金を出してくれる。人間を見る目がまるっきり変わりましたね。昔の僕は大金を手にしただけで天下を取ったような気になって、とても他人のことまで気が回りませんでしたから」

10月に1度、収入に納得がいかず、挫折しそうになったことがある。しかし、「今やめたら、お客さんの善意が全部無駄になる」と思い直して踏みとどまった。鍋やコンロ、ポット、やかんなど、生活必需品のほとんどがお客さんからのもらいものだ。中には1カ月間、毎日弁当を届けてくれた女性もいた。金曜日になると、「これでお弁当を買ってください」と1000円札をくれる。遠慮しても引っ込めようとはしない。なぜそこまでしてくれたのか、理由はわからないままだ。

そんな温かい応援に応えようと、小泉さん自身も努力をしている。安い衣料品店で300円くらいの服を見つけては、清潔感を損なわないよう気を遣っている。また、一度でも買ってくれたお客さんがいつ通ってもいいように、「いつもありがとうございます」と絶えず口に出している。「再就職できたらボランティアをして、助けてもらった恩を返したい」と話す小泉さんに、ただがむしゃらに走り続けていた営業マン時代の面影はない。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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