販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

戸塚愼三さん

お金の問題だけじゃない。 売れたって売れなくたって、こっちの方が楽しい

戸塚愼三さん

1週間に3ヶ所もの売場を掛け持ちしている販売員さんがいる。昨年12月に販売を始めたばかりの戸塚愼三さん(56歳)だ。月・火は東急溝の口駅東口、水・木はJR品川駅港南口、金・土は東急二子玉川駅西口に出没。「1ヶ所だと、どうしても売上げが頭打ちになるから」だそうだ。営業時間は9時から20時までだが、特に往来の多い品川駅では7時から21時まで粘る。土曜日の売場に二子玉川を選んだのも、週末に増える買い物客を見込んでのこと。

とても研究熱心な人だ。その甲斐あって、早くも常連さんが定着しつつある。お弁当、肉まん、たい焼きといった差し入れを届けてくれるお客さんも多い。そんな戸塚さんも、「これまで客商売とは無縁だったから、最初は恥ずかしくて声が出ず、全然売れなかった」と言う。

群馬県の農家で生まれ育った戸塚さんは高校卒業後、自衛隊に入った。まもなく結婚もしたが、夜中に仲間を集めては麻雀に興じていたことが原因で3年後に離婚。職場では酔っ払った友人が教官を殴り、一緒にいた戸塚さんも依願退職に追い込まれてしまった。その後、サッシの会社に就職したが6年で倒産。どうせ働くなら好きな車の運転に携わりたいと、トラックの運転手になった。今度は十年以上続いたが、社長が亡くなり、またしても職を失った。

「それからは飯場(作業員宿舎)に入ったり、現金(日雇い仕事)をやったりしてある程度のお金は稼いだけど、酒と競馬でほとんど手元に残らなかった」

その頃、戸塚さんは両親が他界し、1番上のお兄さんが家出し、妹がお嫁に行き、2番目のお兄さんと二人きりになった生家で暮らしていた。

「兄貴とは意見が合わなくて、いつもケンカばっかりしていた。真面目な兄貴には、遊び好きの俺が理解できなかったんだと思う。しまいに『出てけ!』って言われたんだ」

5年前の晩秋、家を飛び出した戸塚さんはとりあえず仕事を探そうと、当てもなく新宿へ出た。そこでたまたま目にしたパチンコ屋に入り、最後の賭けに出てしまう。持っていた5万円は瞬く間に、パチンコ台へと吸い込まれていった。

「駅の周辺をうろうろしながら、どこに寝たものか途方に暮れていたら、みんな、ダンボールで囲いをつくって寝てるんだよね。俺も寝ていいんかなあと思って、そのままゴロ寝した。寒くてとても寝つけなかったけど。将来のことなんか何も考えられなかった。ここで終わるんかなあと思うと、なんか急にやる気が失せてしまってさ」

無気力な状態に陥った戸塚さんはそれからしばらく、水以外のものを一切口にしなかった。しかし1週間後、さすがに空腹に耐えかね、路上の仲間から炊き出しの場所を教えてもらうと、公園や教会をはしごする日々が始まった。新宿でボランティアの人から、ビッグイシューの販売員を募集するビラをもらったのは、ちょうどそんなときだった。

「販売員は何度か見かけたことがあったけど、何を売っている人なのか、いまいちよくわかっていなかった。ビラを見て本当にお金になるのかなあと不安には思ったけど、メシ代が出ればいいやくらいの気持ちで始めました」

ところがいざ始めてみると、売上げはうなぎ登りに上昇。駅によってばらつきはあるものの、1日30~50冊で安定している。

「日雇い仕事に行けば日給7000円。そこから弁当代と交通費を引かれて手元に残るのは5500円くらい。雑誌を50冊売るのと同じ収入だけど、もう2度と戻りたくはないね。お金だけの問題じゃないんだ。いろんなお客さんが俺のところへ来て『頑張ってね』って言ってくれるんだから。売れたって売れなくたって、こっちのほうが楽しいに決まってるよ」

もちろんつらいこともある。中学生のときに家族で餅をついていてぎっくり腰になって以来、気温が下がると今も腰が痛む。そんなときは"小さなお客さん"の笑顔が何よりの薬になるという。

「俺には子供がいなかったけど、妹の娘の面倒をみていたことがある。だから子供は好きなんだ。小さな子が、お母さんにもらった200円を一所懸命握りしめて"はい"って渡してくれる姿を見ていると、うれしくてさあ」

販売を始めて1万円の貯金もできた。当面の目標は50冊をこえる日が毎日続くこと。控えめに見えるが容易には達成し難い、手強い目標だ。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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