販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
上前浩さん
2時間経っても売れん時も、いつかは売れるんやからと自分に言い聞かせ、約8年間の路上生活に別れを告げた
広島でのビッグイシュー販売が始まってこの4月でちょうど1年になる。上前さんは立ち上げから販売に参加した唯一のベンダーだ。上前さんの現在の担当場所は2か所。月曜日から水曜日までは広島駅南側にある郵便局の前、木曜日から日曜日までは有名デパートがずらりと並ぶ八丁堀の福屋前に立つ。
あれ?お休みの日がないじゃないですかと聞くと、「月に2回くらいしか休んでないわ。ひどく雨が降った日かよほど疲れた時くらい。足が痛いのは慣れちゃったけど、職業病で腰が痛いわ」笑いながらあっけらかんと答える。
通勤者でごったがえす広島駅前は朝8時から、買い物客でにぎわう八丁堀は10時から夕方の6時まで販売する。「少しでも売れるようにいろいろ考えながらやっとるよ。最近はこういうのを作ったりしてる」と、くっきりと大きな字で最新号の情報が手書きされたポップを見せてくれた。どちらかというと口数の少ない上前さんは大声で宣伝をするタイプではなく、見えやすいポップを掲げて黙々と立ち続ける。
上前さんの出身地は広島県の江田島。海軍兵学校があったことでも有名な、広島湾に浮かぶ小さな島だ。高校を卒業してからの4年間は自衛隊に在籍していたこともある。「とにかく訓練がきつかったね。朝グラウンド10周のランニングから始まって、その後実弾で射撃の練習とかね。200メートル先から撃ったって、なかなか当たるものじゃないよ。北海道での野営もきつかったな」
その後広島市内でソフトクリームの販売を3年、契約社員で警備員を半年間経験する。やっと正社員になったのは、呉市にある縫製工業の会社だった。主にズボンを作る会社で、上前さんはズボンの裾にアイロンをかける工程を担当する。江田島から船と電車を使い一時間半かけて通勤していた。
会社員生活を続けて3年が経った頃、母親の具合が悪くなり看病が必要になったために退職した。看病を始めてから1年後の平成8年、母親が亡くなった。
江田島を出て広島市街にやって来た上前さんは、仕事を探しながらの路上生活を始めた。「なかなか仕事がみつからんかった。どこが悪かったかしらんが、断られたわ。決まった仕事をしたのは夏の一時期だけ、市民球場の清掃員。試合が終わった後の22時から深夜1時までで、3000円にしかならなかった」。定職が見つからなければアパートに住むわけにもいかず、路上生活は5年6年と続いた。
そんなある日、夜も眠れないくらいの激痛を腹に覚えた。痛みは丸2日間続き、たまらず近くにいた見ず知らずの通行人に「すみません、ちょっと救急車呼んでくれませんか」と息も絶え絶えに訴えた。救急車で運ばれた上前さんは宇品にある福祉病院に即入院となった。「原因は肝臓らしいけど結局、病名はよくわからん。6人部屋で入れ替わりの激しい病院だったのに気がついたら1年も入院しとったわ」
原因不明の療養生活から退院した平成18年、路上生活者が20人ほど集まった食事会でビッグイシューを知った。4月から始まる販売員募集の説明を聞いて、すぐに返事をした。「『やってみたい!』ってすごく思った反面、『続かんかったらすぐ辞めるかもしれん』っていう気持ちもありましたよ」
4月10日、広島駅の前で始めた記念すべき初日は…。「最悪の雨。でも代表やスタッフと傘をさして4人ぐらいで並んで立ってね。20部くらいは売れたよ。それから自分でも続くかどうか不安だった。2時間経っても売れん時もあるしな。でもいつかは売れるんやからと自分に言い聞かせたわ」
地道に立ち続けた甲斐があり、およそ100人の常連客と平均25冊の売り上げを保てるようになった昨年の12月、約8年間の路上生活に別れを告げた。アパートに移り住んでからは毎日10分間自転車をこいで販売場所へ通っている。「お客さんの差し入れが嬉しいね。お茶とかカイロとかお弁当、本当に助かります。ちょっとした会話も楽しいわ。『応援してるから頑張って』とか声をかけてもらって。やっぱり気分が違いますよ。あと3年は続けたいね」
船で通っていた会社員時代から10年、広島市街をあの頃よりも身近に感じながら今日も着実に立ち続ける上前さんの姿がある。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
この記事が掲載されている BIG ISSUE
69 号(2007/04/01発売) SOLD OUT
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