販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
伊藤敏男さん
漁師時代に覚えた郷土料理を自分の部屋で作りたい。 それが俺の夢だね。
日焼けした顔に今も“海の男”の面影が残る伊藤敏男さん(60)は今年8月下旬、JR品川駅でビッグイシューを売り始めた。平日の10時半~16時半までは西口、朝と夕方以降の通勤時間帯は東口。週末は終日、西口で売っている。両方の出口で人の流れを観察した結果、このタイムスケジュールに落ち着いたそうだ。
仕事を終えた後は雑誌の仕入れ場所があり、寝る場所にも困らない高田馬場へと移動。そして、手元に7~8千円ある日はサウナかネットカフェに泊まる。
「ネットカフェは若い人が多いよ。女性もいるね。あとは俺みたいなじっちゃんばっかり。売れなかった日は、24時間営業のファーストフード店で粘ることもある。一度屋根のある場所で寝ると、外で寝るのが汚くて嫌になるんだよね」と言う伊藤さんだが、かつての寝床は海の上にあった。
生まれは宮城の港町。「親父はカツオ漁船の船頭、兄貴も捕鯨船に乗っていた」。だから伊藤さんも中学を卒業してまもない8月の初め、迷うことなくサンマ漁船に乗った。その後、マグロ漁船に乗り換え、48歳で船を下りるまで世界の海をまたにかけた生活は続いた。
よく寄港するペルーには恋人がいた。金髪で白い肌をした20歳下の彼女とは、日本人が経営するペルーの和食屋で何度も待ち合わせをした。家族にも紹介され、結婚を考え始めた矢先、船会社から解雇を告げられた。伊藤さんの代わりに雇われたのは、人件費が安くすむインドネシア人だった。
「俺が乗っていたときは乗組員20人のうち4~5人がインドネシア人だったけど、最終的には船頭を除く全員がインドネシア人になってしまった。でも彼らに罪はないよ。あいつらとはお互いの母国語を教え合って、おもしろいときはゲラゲラ笑ったし、仕事が終わればマグロの刺身でウイスキーの水割りを一緒に飲んだ。がめついのは船会社だけだよ」
船を下りて以来、ペルーの恋人とは一度も会っていない。
「陸に上がったカッパに何ができるか」と考えた伊藤さんは、自信のある体力を生かそうと東京都内の建設会社に就職した。ところがタイルの目地掃除をしていた一昨年の6月、5階から転落した。幸いにして一命こそとりとめたものの、腰と右足大腿骨骨折という重傷を負い、3ヶ月の入院を余儀なくされた。庇が完全に固定されていなかったことが原因だった。しかし、現場監督は責任を伊藤さんになすりつけて逃亡し、そのまま行方知れずとなった。その後、伊藤さんは別の建設会社に再就職したが、足の違和感が消えず仕事にはならなかった。
住居のない人が一時的に宿泊できる保護施設にも入ったが、細かく定められた規則には疑問を感じた。8月の終わり、蒸し暑い室内は寝苦しく、外で寝ていたら無断外泊扱いされた。規則違反のけじめをつけようと自ら施設を出て一杯ひっかけ、神田川のほとりを歩いていたら、自分と似たような境遇の男性が石段に腰かけていた。渋谷でビッグイシューを販売する下谷さんだった。何気なく「何か仕事ないですか」と声をかけたら、「あるぞ」という返事とともにビッグイシューの事務所へ連れて行かれた。そのとき、昔聴いた水前寺清子の『いっぽんどっこの唄』の「どんとやれ男なら 人のやれないことをやれ」という一節が頭に浮かんだ。決心はすぐについた。
「最初の15日は足がつらくて、いつまで続けられるか不安になったけど、お客さんが顔を覚えてくれるようになったら急にやる気がわいてきた。今までの俺は、仕事を何だと思ってるんだって言われたら何も言い返せないような、だらけた売り方をしてた。だから、10月に入って気合いを入れ直したんだ」
気が緩んでくると、近くのコンビニエンスストアの店長の奥さんが「立ってるだけじゃ駄目よ」と、ハッパをかけに来る。彼女は最新号が出ると真っ先に買ってくれる常連さんだ。会社帰りのビジネスマンが、7人も列をなしていたこともある。そんなお客さんたちに支えられて、1日10~15冊だった売り上げは40冊になった。
「宮城には“どんこ”っていう魚がいて、それを豆腐や糸こんにゃく、野菜と一緒に味噌で仕立てた“どんこ汁”ってのが、うまいんだよなあ。そういう料理をもう一度、自分の部屋で作ってみたい。それが俺の夢だね」と、将来に希望まで持てるようになった。12年前に漁船は下りたけれど、第二の人生の船出はまだ始まったばかりだ。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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